文芸共和国の会

考えるためのトポス

マキコミヤ祭と「サカマキコミ」のご案内

奥田太郎さんと藤田尚志さんが中心となって立ち上げた「マキコミヤ」の祭りが7/17-22の日程で開催されます。

 

「マキコミヤ」とは、文芸共和国の会に縁のある哲学者・宮野真生子さんが培ってきたさまざまな実践の束を継承し、これを今後花束としてさらに発展させていくことを目指すプラットフォームです。

www.project-makikomiya.com

「マキコミヤの祭り」はそのコンセプトを各々が実験的に実践する、年一回の同時多発的イベントとして企画されています。企画も参加も自由です。

www.project-makikomiya.com

 

多彩なイベントはすでに百花繚乱、花束としてまとめられないほど、咲き乱れております。

すでに企画されているイベントに参加するもよし、新たに企画を立ち上げるのもよし。「マキコミヤ」は文芸共和国の会のコンセプトとも多くの接点のあるプラットフォームであると思います。

 

さて逆卷は、「マキコミヤ」関連企画として、7/17-21の日程で、連続ゆるふわ対談シリーズ「サカマキコミ」をツイキャスでやります。

twitcasting.tv


ゲストには、文芸共和国の会にゆかりのある方々、あるいは他のルートで逆巻がたまたま出会った方々をお招きします。

 

#1 7/17 19:00~のゲストは、最近『ディズニーと動物 王国の魔法をとく』(筑摩書房 https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480017222/)を上梓された文化理論/メディア理論研究者の清水知子さん。

 

#2  7/18 17:00~のゲストは、こちらも最近『接続された身体のメランコリー <フェイク>と<喪失>の21世紀英米文化』(青土社 http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3555)を刊行された比較文学研究者の高村峰生さん。

 

#3 7/19 14:00~のゲストは、サルの観察者としてのあり方を日夜追求し、ときには蟻を食べることも厭わない霊長類学者・西江仁徳さん。

 

#4 7/20 19:00~のゲストは、『記憶と人文学 忘却から身体・場所・もの語り、そして再構築へ』(小鳥遊書房 https://www.tkns-shobou.co.jp/books/view/322)を出版されたばかりの英文学/記憶論研究者の三村尚央さん。

researchmap.jp

 

#5 7/21 19:00~のゲストは、『愛と家族を探して』(亜紀書房 https://www.akishobo.com/book/detail.html?id=958)の著者であり、文筆家の佐々木ののかさん。

note.com

 

どうぞお楽しみに。

 

                                 文責:逆卷しとね



10/12 みやの×いそのイベントのご案内

 

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『急に具合が悪くなる』書影


一昨年の「印象」シンポに登壇いただいた宮野真生子さんが、昨年の「技術と人間」シンポに登壇いただいた磯野真穂さんと共著を刊行することになりました。10/12に出版を記念したイベントを開催し、縁あってわたし逆卷が聞き手を務めることになりました。詳細については下のほうをご覧ください。
 また10/05ごろから、会場となる「本のあるところajiro」さんにて、みやの×いその選書フェア20も開催します。選書リストをまとめた小冊子をajiroさんにて配布予定です(現在鋭意製作中です)。

※予約申し込みフォーム

docs.google.com

※なお、同日10/12 15:00~17:00、同じく本のあるところajiroさんにて、宮野さんが一昨年の印象シンポの際の発表した内容を論文化したものを読む会を開催します。こちら参加者には事前にpdfで配布します。参加費無料・ワンドリンク・定員12名です。定員に達し次第、締め切らせていただきます。

申し込みは、逆卷(vortexsitone@gmail.com)まで

宮野真生子・磯野真穂『急に具合が悪くなる』刊行記念イベント

「「救い”あう”」関係を作る言葉は、いかに生まれうるか?ーー意味の争奪戦を超えて​」

司会・聞き手:逆卷しとね
話題提供:磯野真穂

2019年10月、哲学者・宮野真生子と人類学者・磯野真穂との20通の往復書簡である『急に具合が悪くなる』が晶文社より発刊されます。

宮野と磯野の出会いは、2018年9月15日、逆巻しとねが主催する「文芸共和国の会」に磯野がスピーカーとして招かれ、宮野がそれに参加していたことがきっかけでした。

宮野が磯野の発表に対して意見を述べたのは、磯野が「病をめぐる<意味の争奪戦>」について語った時。

「意味の争奪戦」とは、一人/複数の人々が、ある人の病に関わる状況が生まれた際、その周りにいる人が、病む人の代弁者になるための政治闘争を繰り広げることを指します。

例えば、延命措置の決断に迫られた時、 病を持つ本人や、その人と関係を一番深めた人ではなく、突然現れた声の大きい親戚や、多くの知識を持つ医療者などが、「本人のために」という善意を掲げながら、延命措置の有無を決めてしまうといったような状況がこれに当たります。「あなたのために」と言いながら、本当は自分のために、相手の生きる力を奪うことも同様です。

「意味の争奪戦」は、病を持つ人と、そうでない人との間だけではなく、様々な関係で起こりえます。そして、その思想は、子どもだからこうすべき、恋人同士だからこうすべきといった、名前のつけられた関係で互いの役割が固定された結果、関係性から動きが奪われたり、どちらかがどちらかの声を封じたりすることの危険性を発信し続けていた、宮野哲学と通ずるものでもありました。

その結果(かはわかりませんが)、宮野と磯野(通称:ダヴルノマ)の間では、関係性に名前がつけられないという「関係性」がうまく利用され、意味の争奪戦が起こらない言葉のやり取りが可能となりました。しかし互いが全力投球で言葉を投げ合うその過程には、ともすると分断が生じかねない局面もあり、それを乗り越えて編まれたのがこの書簡です。

共に生きることを可能にする一方で、分断も容易に引き起こす言葉の力の両義性。
前者の力を最大限引き出すには、どうやって、どんな言葉を使えばいいのか。
意味の争奪戦による分断はどのように避けることができるのか。

20通の書簡のやり取りを振り返りながら、「動きのある関係性」、「戸惑う力」、「信頼を未来に投ずる」をキーワードに、それぞれが互いを「救い”あう”」言葉の可能性を探ります。

司会と聞き手は宮野と磯野の仲人、逆卷しとね。ぜひ、ご参加ください。(磯野真穂)

<関連書籍>
宮野真生子『出逢いのあわいーー九鬼周造における存在論理学と邂逅の倫理』(堀之内出版)
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784909237422

磯野真穂『ダイエット幻想ーーやせること、愛されること』(筑摩書房
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784480683618

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日時:2019年10月12日(土)19:00~21:00(開場 17:30)
出演:磯野真穂さん(文化人類学者)、逆卷しとねさん(学術運動家・聞き手)
場所:本のあるところajiro(福岡市中央区天神3-6-8 天神ミツヤマビル1B)
共催:文芸共和国の会、からだのシューレ
参加費:1500円(学生 500円)
お問い合わせ:ajirobooks@gmail.com(担当:藤枝)
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【プロフィール紹介】
宮野真生子さん(みやの・まきこ)
福岡大学人文学部准教授。博士(人間科学)。京都大学大学院文学研究科博士課程(後期)単位取得満期退学。専門は日本哲学史・日本思想史。近代日本の哲学者九鬼周造の研究を核とし、「恋愛」と「自己」 の問題、および愛・性・家族の思想史を扱っている。 主な著作として『なぜ、私たちは恋をして生きるのか—「出会い」と「恋愛」の近代日本精神史』(ナカニシヤ出版)、『愛・性・家族の哲学』(共編著: ナカニシヤ出版)他。

磯野真穂さん(いその・まほ)
国際医療福祉大学大学院准教授 博士(文学)。身体、医療、科学技術をキーワードに研究活動を続ける傍ら、「学問はみんなのもの」をモットーに開始された、一般向けの学術イベント「からだのシューレ」を2016年より継続中。医療者向けの質的研究のセミナーも多数こなす。主な著書に『なぜふつうに食べられないのか―拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界―いのちの守り人の人類学』(ちくま新書)、『急に具合が悪くなる』(宮野真生子との共著)、『ダイエット幻想ーやせること、愛されること』(ちくまプリマー新書)、”The Fat Studies Reader” (分担執筆:New York University Press)などがある。
研究業績:https://researchmap.jp/mahoisono, ツイッター: @mahoisono, note: https://note.mu/isonomaho

逆卷しとねさん(さかまき・しとね)
「文芸共和国の会」主宰/野良研究者。専門はダナ・ハラウェイと共生・コレクティヴ論。最近の書き仕事:共著『在野研究ビギナーズ 勝手に始める研究生活』(荒木優太編著、明石書店)、連載「ウゾウムゾウのためのインフラ論」https://webmedia.akashi.co.jp/categories/786、展評:菅実花展(https://bijutsutecho.com/magazine/insight/20349#.XV4KxLlMXzg.twitter)、論稿『ユリイカ』トニ・モリスン特集(2019年10月号 http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3347)、インタヴュー「在野に学問あり」https://www.iwanamishinsho80.com/contents/zaiya3-sakamaki、翻訳「ダナ・ハラウェイのインタヴュー」https://hagamag.com/uncategory/4293 など。

 

6/20-21 河野真太郎さん in Fukuokaのご案内

6/20(木)-21(金)の二日間にわたり、『戦う姫、働く少女』の著者である河野真太郎さんを福岡にお招きし、イベントを開催します。

いずれも平日ですが、各々、授業をサボり、仕事をサボって、ご来場ください。生活を縛っているなにかをサボり、学び考えるための隙間をつくる、という実践こそが、今回のイベント企画の趣旨であり、また河野さんの研究実践の核にあるものと勝手に考えています。

というわけで、どうぞ思いっきりサボってください。わたしが許します(責任はとりませんっ!!)。 

                                文責 逆卷 しとね

 

6月21日(金)本のあるところajiro@天神のトークイベントの詳細と予約はこちらから→ 

docs.google.com

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0620/21 河野真太郎 in Fukuoka

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0620/21 詳細

 

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6/20 生きる道

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6/21 ケモノ道

 

2/12 シンポ「創発する自然‐文化」レヴューの紹介

2/12シンポ「創発する自然‐文化 共通世界の社会生態論」@早稲田奉仕園の模様を、同シンポの主催者・会場責任者の三村尚央さん(イギリス文学/記憶論)にレヴューしていただきました。登壇者のひとりとして、的確なレヴューであるように思います。お時間あるときに、ご一読いただければ幸いです。

note.mu

今回は時間の都合上、文芸共和国の会シンポのハーフサイズと相成りましたが、またの機会にフルサイズのものをお届けできればと思います。参加されたみなさまにはこの場を借りまして、感謝申し上げます。

また、2/10『たぐい』創刊記念トークセッション@青山ブックセンター本店の出演者として、そして2/11『ダナ・ハラウェイ――生き延びるための物語り』上映記念企画「土界の時空――ダナ・ハラウェイと共‐制作の夕べ」の企画者として、当日お越しいただいたみなさまにも併せて感謝申し上げます。ありがとうございました。

                                   逆卷しとね

2/12 シンポ「創発する自然‐文化」予告(無料)

www.dropbox.com

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自然-文化シンポ

 ラトゥールやハラウェイによるnatureculture論の浸透、有機体と物質を等しく情報と意味の記号過程として読み解く生物記号論サイバネティクスの浸透、環境人文学が取り組む環境と人間の相互作用の解明、ソーシャリズムへのエコロジー思想の導入、そして人類学における多自然主義の登場。
 自然/人工の二元論がもはや自明ではない今、回帰すべき純粋な自然も、自律した人間像も幻想にすぎない。
 今注目すべき、自然物と人工物とのあいだをひらき、あいだで生成を続ける「具体」を、共生論、人類学、ポストコロニアル文学が提起する。


日時:2/12(火) 12:00-15:00+α

場所:公益財団法人 早稲田奉仕園 セミナーハウス一階100号室
(〒169-8616 東京都新宿区西早稲田2-3-1)https://www.hoshien.or.jp/map/ 

 

逆卷しとね(共生論)

「風景を創発するこの有限な身体――ダナ・ハラウェイからBabuまで

 

西亮太(ポストコロニアル文学・文化論)

「コモンズ再訪――「ふつうのもの」へ向けて」

 

石倉 敏明(芸術人類学)

「朽ちること、土に還ること:Geos からBios を考える」

 

主催:  三村 尚央(千葉工業大学

     参加自由/無料/予約不要

問い合わせ先: vortexsitone@gmail.com(逆卷)

 

2/11 トークセッション「土界の時空 ダナ・ハラウェイと共‐制作の夕べ」のご案内

※企画概要+檄文

 

土界の時空
ーーダナ・ハラウェイと共‐制作の夕べーー

www.dropbox.com

 

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フライヤーおもて

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出演者プロフィール

※第11回恵比寿映像祭(2/8~24@東京都写真美術館)におけるドキュメンタリー映画『ダナ・ハラウェイ――生き延びるための物語り』(ファブリジオ・テラノヴァ監督)上映に関連した企画です。

東京都写真美術館1Fホール

①2/11(月)15:00~

  (高橋さきのによるアフタートークあり) 

②2/14(木)18:30~

③2/19(火)15:00~

 

 

日時: 2/11(月)18:30~21:30 

    (18:00開場+受付開始)  


会場: 渋谷区文化総合センター大和田

    区民学習センター2F 学習室1

      (〒150-0031 東京都渋谷区桜丘町23-21)

    

入場料: 予約 1,500円(※2/9 夜0時まで) 

     当日 2,000円

 

予約方法: 

① googleformによる申し込み

docs.google.com

② vortexsitone@gmail.com逆巻宛てに、「件名:02/11トーク」とし、[1.お名前 2.人数]を明記の上、申し込み。

 

主催: 高橋さきの/逆卷しとね

 

出演: 石倉 敏明(芸術人類学)

    高橋 さきの(生物学史/科学技術論)

    逆卷 しとね(野良研究者)

 

コメンテーター

    岩崎 秀雄(生物学者/アーティスト)

    細倉 真弓(アーティスト)

    AKI INOMATA(アーティスト)

 

構成 

第一部:1時間30分のトーク(逆卷+石倉+高橋)

    10分休憩

第二部:アーティストを交えた1時間+αのトーク

    (細倉+岩崎+INOMATAからのコメントと応答)

 

土界の民の集い

                                 逆卷しとね

 

 1985年「サイボーグ宣言」から33年、1991年邦訳から27年が経過した。Primate Visions(1989年)、『猿と女とサイボーグ』(原著1991年、翻訳初版2000年、新装版2017年、青土社)、Modest_Witness(1997年)、『伴侶種宣言』(原著2003年、翻訳2013年、以文社)、『犬と人が出会うとき』(原著2007年、翻訳2013年、青土社)、近著Staying with the Trouble(2016年)に至るまで、サイボーグという形象が重みを減じたことは絶えてない。AI熱、モバイル・デバイスの普及、機器による身体的エンハンスメント、労働環境の流動化、荒唐無稽なSociety 5.0が要求する空中戦を思えば、時間の経過とともに反応速度の加速を求められているわたしたちサイボーグの窮状と問題の深刻さを否定することはできない。

 しかしながら、ハラウェイの仕事を情報工学の体制批判へと還元することはできない。生物学・生態学の知見を背景に霊長類学やフェミニズム科学技術論に多大な貢献をしてきたハラウェイの足跡を振り返るにサイボーグや伴侶種をも包摂する、10億年単位で生物を巻きこみ繰り広げられてきた生態学的時空間がStayingにおいて前景化しているのは必然とも言える。

 ハラウェイの生態学は、理念として思い描かれたものではなく、その執筆過程からして、絡まりあった身体どうしが共になにものかへと変容していく生成の経験を体現している。ハラウェイの著作群に並ぶ名前は、いずれも本人が出会い、接触領域を共有してきた伴侶たちである。もっとも身近な伴侶であるラステン・ホグネスとカイエンヌはもちろん、リン・マーギュリス、スコット・ギルバート、マーガレット・マックファール=ンガイら生物学者、ジム・クリフォード、マリリン・ストラザーン、アナ・ツィン、エドゥアルド・コーンら人類学者、ジャック・デリダミシェル・フーコードゥルーズ=ガタリらフレンチ・セオリーの担い手、 ブリュノ・ラトゥール、イザベル・スタンジェール、カレン・バラドら科学哲学者、リン・ランドルフジョアナ・ラス、オーソン・スコット・カード、アーシュラ・K・ル=グウィン宮崎駿、そして今回のイベント開催の機縁ともなった映像作家ファブリシオ・テラノヴァらアーティスト、無名の大学院生や愛犬家、活動家、メールでのやりとりまで含まれる有象無象の伴侶たちが、批判と協働の境目なく、ゆるやかに流れるハラウェイの世界生成のアクターを演じている。

 ここ日本でも、ハラウェイの思考実践と共に生きる伴侶は数多い。「サイボーグ宣言」の翻訳を収録した『サイボーグ・フェミニズム』(初版1991年; 増補版、水声社、2001年)を上梓しいち早くハラウェイを日本に紹介した小谷真理巽孝之、「ポストモダン身体のバイオポリティクス――免疫における自己の決定」(『現代思想』1991年3月号)と「もう神のトリックはいらない――霊長類、サイボーグ、女性」(『インターコミュニケーション』2号、1992年)を翻訳した山田和子、「多文化的フィールドのバイオポリティクス」(『現代思想』1992年10月号)を高橋さきのと共訳した松原洋子、インタヴュー集『サイボーグ・ダイアローグズ』水声社、2007年)を翻訳してハラウェイの肉声を届けた高橋透と北村有紀子、『伴侶種宣言』を翻訳上梓した永野文香は決して外すことができない。他にも有象無象のコレクティヴがハラウェイと共に思考を重ねてきたはずだ。

 視野狭窄のわたしでも、伴侶の生息範囲が広範囲にわたることはみてとれる。2017年7月、『猿と女とサイボーグ』新装版刊行を記念してお茶の水女子大学で開催した、「サイボーグ宣言」と「状況に置かれた知」を読解するハラウェイ読書会(主催/高橋さきの+逆卷しとね)には僅かな告知期間にもかかわらず文系/理系問わず30名ほどの伴侶が集った。2018年1月には恵比寿ナディッフにてハラウェイからの影響を公言するアーティスト・細倉真弓と高橋さきののトークが開催され、盛況を博す。2014年から継続して「サイボーグ宣言」の文脈を取り入れ連作写真「ラブドールは胎児の夢を見るか?」を制作してきた菅実花の仕事、猪口智広という気鋭のハラウェイ学者の台頭も見逃せない。伴侶種概念を摂取し実装している、奥野克己やシンジルト、近藤祉秋らによる運動体「マルチスピーシーズ人類学」もまた欠くことのできない伴侶たちであろう。逆卷も寄稿した2月上旬創刊予定の雑誌『たぐい』は、マルチスピーシーズの共生と協働の賜物である。

 以上のような伴侶の生態系と共に、今回のイベントでは、喫緊の予感を忍ばせつつ途轍もなく悠長なハラウェイの生態学的時空間を掘り下げてみたい。この生態学は地球環境の保護や絶滅危惧種の保存、人間が人間として生き延びるための方法を拙速に模索するものではない。ヒトを多くの仲間たちと交わらせ、怪物化・キメラ化させることにより、生物の「汚らわしい」生成過程に参加させるその巧妙さは、ハラウェイお馴染みの手練れぶりである。あやとり、触手的思考、共‐制作sympoiesisといった関係生成の概念は、新しい「縁」の形成を通じこのやせ細った現在を分厚い時空間へと変貌させる手がかりとなる。ヒトはhumanではなく、腐植humus、堆肥compost、大地の者gumanへと錬成する。日銀短観と共に我が物顔で人新世を生きる人間やポストヒューマンを裁断し、ほとんど止まっているようにもみえる地質学的時間を費やし堆肥へと変えていく実践を行うアクターとして、わたしたちは登場する。土と共に。

 Staying with the Troubleのトポスは土である。地球上で平均するとたった1メートルの厚みしかない土壌にわれわれは多くを依存している。果たして、ハラウェイはそのタイトルの通り、化学肥料の濫用によってやせ細り、ラウンドアップの散布で多様な植生を失い、皆伐と焼き畑に荒らされ、石炭産業と発電所が先住民を搾取し続ける土のトラブルを語る。ハラウェイが同書の鍵語とするSFにはサイエンス・フィクションやスペキュラティヴ・フィクションももちろん含まれる。しかしこのSFは地球外を舞台とはしない。science fact, string figures, speculative feminismなど、多様な内包を膨らませるハラウェイのSFは、このトラブルまみれの大地にとどまりつつ、この地球を異種入れ食いの居住空間へとテラフォーミングする、土界の民のためのSFである。

 登壇者を紹介しよう。

 もとより高橋さきのは山河を駆け巡り、生物学・生態学の沃野に育まれてきた野生の思考の持ち主である。『猿と女とサイボーグ』と『犬と人が出会うとき』の訳者として知られる高橋が、ハラウェイに惹かれ、翻訳に着手することになった誘因は、森や土との触れ合いと語らいの愉悦である。今やフェミニズム科学技術論の論客として、特許翻訳の実務家として多忙な日々を駆ける高橋が、土界の民の一員としてStayingの土の呼びかけにおっとりと応える機会もそうはないだろう。

 文学の出自に忠実にレトリカルな読みに没頭する逆卷しとねは、11歳ごろまで土と密接にかかわって生きていた。半農の祖父母ととともに暮らす過程で、鶏と七面鳥の卵と肉に育まれ、土を耕し、カライモの苗を植え、ビワをむしり、イモリを狩り、ザリガニを釣り、蛇に怯えながら暮らしていた。書籍と人との出会いが中心の日々のなか、今、逆卷もハラウェイと共に土界の住人へとのろのろと生成している。Stayingに覚える堆肥や腐植のただならぬ魅力が逆卷をこの場へと誘う。

 高橋と逆卷のふたりがハラウェイの土壌に畝を盛るなら、種を蒔き、苗を植えるのは石倉敏明となるだろう。フィールドを経めぐりながら宗教学を修めた石倉は今土に魅せられている。田附勝との共作『野生めぐり』淡交社、2015年)に代表されるように、石倉は古今東西の文献を渉猟しつつ、各地の土を踏みしめ、習俗と信仰、儀礼の数々を踏破し、ホームでは稲田と対話を続ける農業の民でもある。石倉の土への関心は、ヴェネチア・ビエンナーレ日本館出展に向かうコレクティヴの一員となる経験にも触発を受け、東北地方に生息する獣の総称「シシ」に生成する民俗儀礼とさまざまな「ムシ」にまつわる祭礼とを縫合する生態宇宙論へと跳梁を遂げようとしている。石倉も今、ハラウェイと共に思考している。

 

 こうして、土界の民はここに寄りあうことになった。草を見つめ、蟲を撫で、雨乞いをするのは3人の責任だ。しかし刈り入れは参加者も含めたわたしたちみんなでやろう。収穫は山分けだ。

 ここで本セッション企画の機縁が、恵比寿映像祭における、ファブリシオ・テラノヴァ監督のドキュメンタリー作品『ダナ・ハラウェイ――生き延びるための物語り』(2016年)の上映にあったことをもう一度想起したい。同作はStayingと同時並行で制作され、同書の公刊とともに世に送り出された映像作品である。オートポイエーシス(autopoiesis)ではなく、シンポイエーシス(sympoiesis)。制作は単独では果たせない、なにものかと共に行う協働作業だ。だからわたしたちの土にまみれた触手は、細倉真弓、岩崎秀雄、そしてAKI INOMATAを協働制作者として手招きする。

 細倉は、身体を撮り続ける写真家である。hosokuramayumi.com | Mayumi Hosokura personal website

ヒトの身体とは限らない。別様に生成する可能性を秘めた身体のありかたについて細倉はこう語る。

 

人を撮ることがベースにあって、最終的にいろんな人が写っているけれど、写真の奥の方に存在するイデアについての写真を撮っていると思っています。最終的に抽象的な人物像ができるイメージで、モノを撮っているときもその延長という感覚があります。ここ数年、種が違う遺伝子や肉体の機械化を受け入れることでキメラになるサイボーグフェミニズムについて考えていて。植物とか、鉱物とかネオンライトも、人とか動物と完全に分断されているんじゃなくて、リニアにつながっていって、ひとつの大きい塊なんだと考えています。https://imaonline.jp/articles/interview/20180118mayumi-hosokura_atsushi-sasaki_1/#page-5

 

見える身体を越えた位相で、さまざまな身体どうしがひしめき合い、輪郭を変容させ生成していく、という身体の入れ食いを細倉は写真と共に幻視する。たとえば、「CYALIUM」展(展評:https://bijutsutecho.com/magazine/series/s8/319)の作品群のように、細倉は人間の身体と無機物の間にある種のつながりや接触を見つけていく。インターフェイスのような面と面の接触でなく、メルロ=ポンティに倣って「肉の折り込み」(infoldings of the flesh)とハラウェイが呼ぶ運動、すなわち有機体/無機物を相互包摂する身体のトポグラフィカルな嵌合を平面世界で展開する。そこには意味にも物質にも回収できない豊かな身体の戯れが広がっている。細倉は土界の民としてなにを思うのだろうか。

 岩崎は、生物学者であると同時に(バイオメディア)アートの制作者でもある。生命のプロセスを記号へも物質へも還元しないという岩崎の態度は、ハラウェイが「物質的‐記号論的身体」(material-semiotic bodies)と呼んできた生命のあり方と共振する。『<生命>とは何だろうか 表現する生物学、思考する芸術』(講談社、2013で詳述される合成生物学とバイオメディアアートにおける、「生命をつくる」という倫理的侵犯の誹りも受けかねない制作行為は、実は生きることそのものなのではないだろうか。ハラウェイにとって生とは、予め与えられたものとしてあるものではない。生きることは、記号にも物質にも還元できない「身体的実践」(bodily practice)そのものである。さらには、どの生も摂食や接触、感染、生殖を介して命を紡いでいくという意味において、どの生物も個体や細胞レベル、遺伝子レベルのユニット単独では維持できない。生きることはただ生を制作するだけではなく、共に制作する試みであろう。生命の協働制作を肌身で知り、「aPrayer: まだ見ぬ つくられしものたちの慰霊」によって人工生命の慰霊をさきどりする岩崎は、土界の民としてどのような応答をするのだろうか。Image

 INOMATAならば、まずハラウェイの伴侶種を文脈のひとつとした"I Wear the Dog's Hair, and the Dog Wears My Hair"がすぐに思い浮かぶ。イヌの体毛とヒトの体毛とを交換するこの作品は、「形見や契りといった絆の形象化を表すいっぽうで、体温調節という「はたらき」の交換が含まれている」。これは伴侶動物+ヒトという自他関係から離れ、互いの生を共に生成する伴侶種の共‐生成(becoming-with)の実践だろう。

INOMATAの代表作である「ヤドカリ連作」は、Stayingのなかでの例証として挙げられていても不思議ではない。特定の場所に生きつつ、成長に合わせ「やど」を鞍替えするヤドカリと、ニューヨークの建物、オランダの風車小屋、バンコクの寺院などの世界各地の建築物を模した「やど」を3Dプリンターでつくるアーティスト。アートと生きものの協働制作は、傍観者のままの人間を、生のプロセスへと誘いこむたくらみに満ちている。土界に集うINOMATAはどのように応答するだろうか。

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 こうしてわたしたちは土へと還る。「分厚い現在」と共にヒトでもポストヒューマンでもない存在へと気だるく生成する。ハラウェイに倣い、各々の身体のエッジを開き、菌糸と触手を緩慢に歓待する、さらなる土界の民の協働制作を心より乞う。

 

12/1 第12回文芸共和国の会シンポ「性とモノ」(無料)

※ 11/30にはトマルビルでプレイベントとして菅実花アーティスト・トークが開催されます。

 詳細は↓

republicofletters.hatenadiary.jp

※ 各発表の概要を追加しました(11/08)

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※公費申請用プログラム

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※ 19:00~、鹿児島市内にて懇親会を開催します。会費は一般4.000円・学生2,000円(人数次第で学生の会費はできるだけ無料に近づけます)。出席希望はvortexsitone@gmail.com(逆巻)に11/17までにお知らせください。領収書が必要な方はその旨、併せてお知らせください。

 

※文芸共和国の会メーリングリスト登録希望者は、逆巻(vortexsitone@gmaiil.com)まで「氏名」と「専門 or 関心領域」を明記の上、ご一報ください。本会の趣意に賛同いただける方であれば、資格は不問です。

 

第12回文芸共和国の会シンポジウム

 

「生が、性が、モノモノしい」

                      ――Bio-diversity is Materializing――

 

(予約不要/誰でも参加自由/無料/途中入退場自由)

 

日時: 2018年12月1日(土) 12:00~18:00 (プレゼン終了後、参加者全員で対話)

会場: 鹿児島大学 郡元キャンパス 法文学部1号館 102号室

  (〒890-0065 鹿児島県鹿児島市郡元1丁目21−30 ℡ 099-285-7517)

  鹿児島中央駅から鹿児島大学法文学部までの経路案内→Google マップ

  キャンパスマップ(会場=64番)https://www.kagoshima-u.ac.jp/about/map2018-korimoto.pdf

問い合わせ先: 太田純貴(鹿児島大学
       【e-mail】yota@leh.kagoshima-u.ac.jp
       【TEL】099-285-7576

 

出演: 菅 実花    (アーティスト)

    藤田 尚志    (フランス哲学)

    関根 麻里恵 (ラブドール研究)

    猪口 智広    (科学論・動物論)

  

 

性とモノとバケモノ(仮題)

                                       藤田 尚志
 
 「あの人をモノにする」とき、人はモノに化ける。愛と性、情動と経済の関係をどう考えるべきか。マルクスは『資本論』第一部草稿において、明らかに「物象化」を批判的に考察しており、例えば皮革や靴型などの生産手段が靴職人を「使用する」という事例において、モノは或る種の主体性・能動性を帯びる。「モノ(Sache)と人(Person)とのこのような転倒(Verkehrung)、したがってその資本主義的性格」を精確に見て取っている。だが、モノと人格の転倒が問題なのではなく、それが「資本主義的性格」、つまり「所有」のパラダイムのうちで行なわれていることに問題があるのだとしたら?
 「人のモノ化」というマルクスの問題系を、「脱=所有」のパラダイムにおいて最も前進させたのは、フランスの特異な文学者・思想家ピエール・クロソウスキーの小説『歓待の掟』および思想的エッセイ『生きた貨幣』である。「生きた貨幣」とは端的に言えば、労働の支払いとして使用権を差し出された人間の身体である。「それは、情欲の源泉である生きた対象を、飼育の次元に、種馬飼育場の次元に貶めることだ」、人間の身体や情愛を経済的尺度で評価することは許されない(動物の身体や情愛ならば許されるのだろうか?)という異論もあろう。だが、情欲の対象たるアイドルやスターの視聴覚的美点の数々を、いやもっと一般的に私たち労働者の生産能力を――「人材開発」「ヒューマン・リソース」という言葉が一般化して久しい――、収益性や維持費の観点から、数量的に表現しているのは、現代社会を支える当の産業主義そのものではないのか。死んだ貨幣に対置された「生きた貨幣は逆に、習慣の中に根を下ろし、経済的諸規範の中で制度化された金本位制の、その金の役割に取って代わる力を持つだろう。ただし、その新しい習慣は、交換行為の数々とその意味を、深く変えずにはいないだろうが」。そのとき、「人間の尊厳は手つかずのまま残されており、金銭はその価値のすべてを維持している」。これはバケモノ的なことだろうか?
 当日は以上の議論をより詳細に詰めることになるかもしれないし、別の著者たちを扱うことになるかもしれない。というのも、「脱=所有」「共有」の方向へ進もうとする新たな読解は、意識・主体・個人・人格といった哲学の主要概念の捉え方も変更せずにはおかないからである。その意味では、未だに愛・性・家族の領域において本格的に扱われたとは言えない哲学者たち、例えば現代フランス哲学者ジルベール・シモンドン――鹿児島大学の近藤和敬が訳者の一人となって、主著『個体化の哲学』の翻訳(法政大学出版局、2018年)が刊行されたばかりである――や、『理由と人格――非人格性の倫理へ』という大著(勁草書房、1998年)を刊行したアメリカの哲学者デレク・パーフィットが当日取り上げられたとしても大きな驚きはないだろう。

 

ラブドールは異人か隣人か

――ヒトとラブドールの関係性を検討する


                                      関根 麻里恵

 

 菅実花が産み落とし、世に送り出した「未来の母(=妊娠するラブドール)」は、古今東西で描かれてきた人工的身体や人工生命をテーマにした作品群がほとんど達成し得なかったことを成し遂げたと言えるだろう。それは、昨今のテクノロジーの進化によって実現するかもしれない、モノによるヒトの「再生産(=生殖)」である。鑑賞者は、まるで本当にラブドールが妊娠したかのような反応――女性が産む身体から解放されるといったポジティブなものから、神への冒涜、女性の尊厳を侵害しているといったネガティブなものまで――を起こし、インターネット上でもさまざまな意見が飛び交った。
 菅が提示した「未来」は、限りなく現実味のあるフィクションだ。しかし、現実のラブドールは万能ではない。むしろ、助けを借りなければ動くことすら困難な、非常に心もとない存在だ。岡田美智男がいうところの「弱いロボット」に近い。ロボットの存在が完全・完結したものではなく不完全・不完結だと捉え、ヒトから助力を引き出すことでヒトとロボットがコミュニケーションをとっているかのように感じられるラブドールとのコミュニケーションも同様のことが言えるのではないだろうか。
 本発表では、いわゆるセクサロイド化するラブドールからは敢えて距離をとる。なぜならば、ラブドールセクサロイドではコミュニケーションのとり方が異なるうえに、人工知能などのテクノロジーと結びつくことで、畏怖や脅威の対象(モノモノしいモノ)として語られてしまうからだ。
 想像力を掻き立てられる豊穣な素材であるがゆえに、置いてけぼりになってしまったモノモノしくないラブドール。それらとの対話の仕方は、非常に素朴で誰しもができうるものである。そのことにいま一度着目し、「親密性(intimate relationship)」をキーワードにヒトとラブドールの関係性について議論を展開していきたい。

 

サイボーグの神話、堆肥の寓話

ーーハラウェイから異なる身体を想像する

                                       猪口 智広

 「われわれはサイボーグである」というメッセージには、確かに一種の預言のような希望を感じさせるものがある。「サイボーグ宣言」(1985)においてダナ・ハラウェイは、人間/動物、有機的なもの/無機的なもの、物理的なもの/非物理的なものといった区分の崩壊を指摘しつつ、来たる情報の時代における女性のアイデンティティサイエンス・フィクションに登場するサイボーグに見出した。情報技術やバイオテクノロジーの発展が実現する中で、技術的人間あるいは「ポスト人間」をめぐる議論の拠り所として「サイボーグ宣言」は頻繁に引用され続けている。
 しかしながら、ハラウェイ自身がたびたび述べているように、この「宣言」は生体と機械の融合や人間の超克についてのユートピアを掲げるものではない。むしろ人間概念を適切に批判するために、偏愛と恐怖という二極的な反応のどちらでもないような、技術への異なるまなざしの希求なのである。こうしたまなざしは、近年ハラウェイが関心を向けている動物や環境といった題材についての議論における非人間存在への視線にも通底するものでもある。
 その一方で、妊娠するラブドールという題材は、ハラウェイの論じるような非人間存在の要件をすんなりと満たすわけではない。むしろそれが体現する性質のゆえに、ある種の緊張関係すら見出しうる可能性がある。本発表では、ハラウェイが近年の著述におけるアートやフィクションの持つスペキュラティヴな語りの可能性を手がかりとしながら、ヒトならざるモノ存在へのハラウェイの議論の射程、そして表象への評価について、検討を試みたい。

 

※本シンポジウムは、平成30年度・鹿児島大学地域連携予算「鹿児島と芸術文化」(南九州・南西諸島を舞台とした地域中核人材育成を目指す新人文社会系教育プログラムの構築」)の助成を受けています。

 

文芸共和国の会は、学術的出会いの場を広島以西の地方に、2016年2月に8名の有志の協賛により立ちあげられた会です。これまで広島、山口、北九州、博多で順次開催されてきました。

しかし「会」とはいっても、馴染みの仲間が集まる内輪の相互扶助の「会合」ではなく、もっぱら今まで会ったことのない知や人と「出会う」ための会です。地元の方を中心に、学者/市井の隔てなく、共に学術のおもしろさや価値をわかちあいます。難しくてよくわからないけどおもしろい、というところから学術への関心は始まります。無知も失敗もすべて許容しつつ、学術への関心とその場で投げかけられる問いを一緒に育てていく場です。同時に、この会は、ときには読書会が、またあるときには共同研究が始まるきっかけとなる場所でもあります。

さて、鹿児島での初めての開催となる今回のテーマは、「モノと性」です。

杉田水脈議員による「LGBTには生産性がない(生殖をしないの意」という発言、さらには遡って柳澤伯夫厚生労働大臣による「女は産む機械」という発言を思い出してみましょう。多くの人がこれらの発言に反発しました。しかし国民を人口動態や出生率で計算する国家の観点から見れば、これらはある意味、当然とも言える考え方ではあります。国家にとって国民は税収を頂点とするさまざまな統計的数字の操作のための頭数でしかないからです。しかし、彼ら国民の代議士も国民もおそらく見落としているのは、LGBTであるなしにかかわらず生殖をしない人の存在であり、産ませる機械としての男の存在です。すべての人間がモノ扱いされているところから始める必要があるでしょう。

では、人間をモノ扱いする行為に対してなぜ人は怒りを覚えるのでしょうか。それは人権を蹂躙しているからでしょうか。道徳観を踏みにじるからでしょうか。人間にはモノとは異なる特別な価値があるからでしょうか。 

しかし、家族と同じようにペットを愛する人がいます。動物はモノではない、とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。もっとも、動物はおろか、二次元のキャラに恋したり、プラモデルを親兄弟よりも慈しんだり、エッフェル塔と結婚したりする人がいるという事実をどう考えたらよいのでしょうか。愛情を傾けることができるものであれば、それは人と同じように愛する対象となりえます。とはいえ、わたしたちは、動物やモノに人権や人間らしさを感じているから愛しているわけではないでしょう。人権を認めることと愛すること、ひいては性愛の対象とみなすこととのあいだには大きなギャップが存在しています。対象に与えられるもっともらしい地位より先に、愛や欲望は対象めがけてほとばしるのです。

とりあえず認めてしまいましょう。わたしたち人間は常にモノ扱いされうる存在である、と。古代ギリシャ・キニク学派の哲学者ディオゲネス(412?-323B.C.)は、「自分が死んだら死体は埋葬せず、どこかに放置して欲しい」と言ったといいます。人間の死体は、ただのモノ(自然の一部、腐った肉)に過ぎない。生きている人間もモノです。DNAやRNA、合成されるタンパク質、それから細胞によって構成され動的平衡を形成する消化器系、生殖器系、循環器系、筋骨格系、神経系は、すべて生体物質(living substance)に由来します。ロボットのような非生物とは異なるメカニクスを有する生物といえど、その命が物質に根差している点は疑いようもありません。この意味において、人間はモノである。

すると人間をモノとは異なる存在として前提する道徳的・人道的評価基準の外には、人間も動物も石もロボットも空気や水でさえも、すべて等しくモノとして捉えうる広大な荒れ野が広がっていることになるでしょう。この宇宙の存在はすべてなんらかのモノである。

あなたの愛する人が虫けらのように殺されたとき、あなたは非人道的な行為だと憤るでしょう。あるいはあなたの恋人に対する愛撫を、相手はまるでモノのように扱われたと感じることもあるかもしれません。これらは実に人間らしい感情です。しかしその感情は本当に倫理的だと言えるでしょうか。なぜあなたは自分の愛していない誰かが知らないところで虐待されているのに怒らないのか? さらにはこうも問うべきでしょう。なぜあなたは恋人を大切にするのに、目の前の石ころを蹴とばす権利があると思うのか? 猫は殴らないのに、段ボールならば叩いてもよいのか? あなたは自分がモノ扱いされたり、大切な何かがぞんざいに扱われることに憤るのに、なぜすべてのモノを大切に扱わないのか? 

人に対する扱い、とりわけ性にまつわる事柄を非人道的な「モノ扱い」という観点から非難するのを思いとどまることによって、モノをどう扱うのかという根源的な問いは始まります。たとえば、しばしば性欲処理の道具というレッテルを貼られることの多いラブドールに対する態度は、現実の人間に接するときよりも慈愛に満ちたやさしいものなのではないか。もしかしたら、傷つきやすく繊細な扱いを要求するラブドールからモノに対する態度を再考することは可能なのではないか。よそよそしく正しい規範を要求する人道的・道徳的な「人間扱い」よりも遥かに親密で倫理的な関係が「モノの扱い」から見えてくるのではないか。LGBTには生産性がない、女は産む機械だ、というような発言、DV・レイプを始めとする性暴力、性別にかかわらないセクハラにわれわれが怒るのは、人間がモノとして扱われているからではなく、等しくモノとして存在しているはずなのにその一部に対する扱いがどこか不当だからなのではないでしょうか。モノとしての平等を基礎として、性、ひいては生の多様さと特異性を、モノの扱いから学ぶとき、差別や暴力と対峙し、離散化する世界を生きる上でのひとつの別解を得ることができるのではないでしょうか。

今回の登壇者は4人です。

アンリ・ベルクソンを始めとする本流のフランス哲学の専門家として知られ、最近では現代的な問題に根差した愛・性・家族の哲学を展開する藤田尚志さん。

ラブドールを被写体にし、妊娠するアンドロイドの写真連作を発表しているアーティスト・菅実花さん。

ヒト型の性具とのかかわりから人間の性愛観の変容を研究している関根麻里恵さん。

生物学史家ダナ・ハラウェイの一連の著作を紐解きつつ科学技術や動物と人間との関係を問い続けている猪口智広さん。

まったくの異分野どうしの専門家を突き合わせ、そのあいだに対話の可能性をひらくのが文芸共和国の会の最大の特色です。登壇者の発表には、「性とモノ」というテーマと、菅実花さんの一連の作品、およびそれに関連したテクスト・インタヴュー記事への言及の他に制約は一切かけていません。登壇者たちの問いが一堂に会するとき、それはどのような模様を描くのか。それを考えるのは登壇者でもわたしでもなくみなさんです。登壇者を含め、参加者全員で車座を組み、四者四様の発表内容をベースとして3時間の議論を行います。

わからないけどおもしろい。学びがはじまる場にようこそ。