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文芸共和国の会

考えるためのトポス

第1回文芸共和国の会レヴュー

延べ20人の参加者と共に、第1回文芸共和国の会@九州工業大学戸畑キャンパス

http://republicofletters.hatenadiary.jp/entry/2016/01/22/193309

を無事に終えることができましたことを、ここにご報告します。

地元の方々、図書館員、大学生、非常勤講師、哲学カフェの主催者、高等教育機関所属の研究者などなど顔ぶれは多彩、千葉や神戸、鹿児島といった遠方から駆けつけてくださった方々もいました。

課題は山積ながら実現にこぎ着けることができたのはひとえに、メーリングリストの参加者、来場者のみならず、その他さまざまなかたちで本会を支援してくださったみなさまのおかげです。

学会でもなく市民講座でもない、多様なバックグラウンドをもつひとたちのあいだに対話を生みだす場。

商業誌・学会誌という都会を中心とした学術文化や学会・学部・学科という制度を離れた場。

このような「みんなの人文学」(public humanities)を各専門分野、さらには市民各人の生の後ろ盾として捉えよう、という実践の端緒はまだ開かれたばかりです。

都会から遠く、簡単にアカデミックなものに触れることのできない地方、殊に福岡・山口・広島に考える文化を根づかせることに本会は専心したいと考えております。

考えるきっかけを与えあう触発の場、そして楽しい人文知を育てる場を目指していこうと思います。

わたし逆巻しとねの発表原稿・レジュメをそのままdropbox経由でここに公開します。わたしの考えた「みんなの人文学」のイメージが、みなさんが考えるためのたたき台になれば幸いです。

www.dropbox.com

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わたしの発表に対して寄せられた意見として一番印象に残るのは、「わからない」というものでした。そのときのわたしは「わからなくてもいいのではないか」、と思っていました。けれども、ある程度まではきちんとわかってもらう必要があったのではないか、特に会の理念にかかわる発表が伝わらないというのは問題なのではないか、という気がしております。発表の内容に関しては、強引な単純化や理想化があることも認めます。また壁を通じた対話の可能性について具体的に論じるべきだった、とも思っております。今後の課題です。

次に場の設計の問題です。大学内の講義室を会場にしましたが、図書館員の方から「どうして「ラーニング・コモンズ」を利用しなかったのか、という意見を頂戴しました。これは運営側の配慮不足でした。実際、対話は発表者に近い部分に限定されていました。誰でも発言できる雰囲気をつくるためには、席の配置、発表者の位置などさまざまな配慮が必要なことがわかりました。

また今回は、わたし自身が学会における司会の役割(発表者の紹介、簡単なまとめ、質問者の指定という発表者本人でも兼ねることができそうな仕事)に不満をもっていたため、思い切って司会なしでやってみました。しかし発表と対話の時間の区切り方や質問者と発表者のあいだに対話を成立させることに困難を感じました。これは司会そのものが不要なのではなく、有意義な対話を生みだすために司会のあり方を根本的に考えなおさなければならない、ということだと思います。相互理解のための基盤を慎重に形成したうえで議論をする、という部分を次回は重視してみたいと思います(最小限の合意で構わない。それをみんなで確認することで、そこを超えたわからないものに対する関心は確かなものになると思います)。

今後もメーリングリストを始めとして、各所からさまざまなご意見を頂戴しながら、回を重ねていきたいと思います。

ちなみに現時点で、第2回は5月21日(土)、会場は徳山高専山口県)を予定しています。

わたしからの報告は以上です。

                                 逆巻 しとね

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私、大野瀬津子の発表「《女子力》のアメリカ文学:感傷小説研究史とジェンダー」の原稿は、2015年度末に刊行予定の金沢大学の紀要、『Kanazawa English Studies』第29号に投稿した論文に加筆修正を加えたものです。このため梗概をもって報告に代えさせて頂きます。レジュメと合わせてご高覧下さい。オープン・アクセスの権利を取得次第、この場で論文を公開する予定です。

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<梗概>

 本発表の目的は、1970年代以降のアメリカ感傷小説研究が総じて領域横断的なジェンダー研究の一環として発展してきた理由について、一つの仮説を提示することにある。感傷小説はほぼ例外なくジェンダー上の差異を基軸に評価される、という点を先行研究全体から確認した上で、ジェイン・トムキンズの『扇情的な意匠』(1985)の分析に移った。感傷小説の礎を築き、後のフェミニズム批評に大きな影響を与えたとされる同書でトムキンズは、女性作家の感傷小説を女性の政治的な潜勢力が内包された作品群として評価している。アカデミアにおけるマイノリティ、つまり女性研究者の一員であるという自覚を強くもっていたトムキンズは、感傷小説がキャノンから排除されたのはそれらが女性作家によって書かれたためだと考えた。そして男性批評家中心の文学研究の伝統において見過ごされてきた、女性作家の作品に固有の価値を感傷小説に認め、それらの再評価を訴えた。だがこの説には大きな瑕疵がある。議論の前提をなす「感傷小説がキャノンから排除されてきたのはそれらが女性作家によって書かれたからだ」という肝心の部分の妥当性について、トムキンズは確たる論拠を示していない。後代の批評家たちがこのトムキンズ説を疑うことなく踏襲したために、感傷小説に固有の価値を問う際、ジェンダーを争点とするアプローチが反復再生産されることになったのではないか、というのが本発表で提示した仮説である。しかし発表後さまざまな指摘を受け、「キャノンからの感傷小説の除外」というトムキンズ説の前提のみならず、フェミニスト批評家や黒人文学研究者が一般的に用いる「キャノンからの排除」というレトリックがどのように生じ、どのように使用されてきたのか、というより根源的な問題についても再考する必要性を確認した。

 

 <総評>

 皆様、貴重なご質問やコメント、温かい励ましの言葉を寄せて頂き、どうも有難うございました。文芸共和国の会が立ち上がらなければ出会えなかった方々からも感想を頂戴し、ここで発表して本当によかった、としみじみ思っています。

 月並みですが、発表してみて、自分の言いたいことをみんなに伝えることの難しさを改めて感じました。私の論がどんな問題意識に発し、どんな理路を経て、どんな結論に至ったのか、そしてその結論からどんな課題が生じるのか。さまざまなご関心をお持ちの方が集う場であるからこそ、その辺りをもっと整理する必要があったと思います。また発表時間を60分にすべく、下敷きとした論文の原稿に大幅な加筆修正を施したせいで、かえって焦点がぼやけてしまった可能性もあります。発表時間は30分程度で十分かもしれません。

 自由討論の後、「聞きたいことや言いたいことはあったが、言い出せなかった」という声を複数頂戴しました。実際、質疑応答の時間が苦手、という方は案外多いのではないでしょうか(何を隠そう私もその一人です)。そのような人でも参加しやすい雰囲気をつくるのが、今後の課題だと思います。発表者対質問者、という二者関係に閉じるのではなく、みんなに議論を開いていくような工夫が必要です。逆巻さんもご指摘のように、「相互理解のための基盤」の形成を助けるような司会のあり方について、皆さんとともに考えていきたいと思います。私からの報告は以上です。

                                 大野 瀬津子

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