文芸共和国の会

考えるためのトポス

第五回「文芸共和国の会」開催のご案内

※公費申請用プログラムを公開しました(1/27)

※告知用ポスターを公開しました(1/30)

 

 

本会はそれぞれ専門を異にする研究者どうしが専門の垣根を維持したまま対話すると同時に、アカデミアの閉域を超えたところで市民どうし人文知を共有していくことを目指す場です。学者だけの場所である学会・研究会でも、学者が市民に対し講義をする市民講座でもない、学者と市民が共に同じフロアにおいて思考するアゴラ(広場)です。会員制ではありません。出入り自由です。すべて無料です。ふるってご参加ください(※本会の基本理念に関しては下のリンクを参照してください)

 

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※ポスター、梗概、ハンドアウト等順次公開していきます。

※本会メーリングリストでは、運営方針や具体的な開催の構想その他について闊達な議論が行われています。現在のところ、海外、全国津々浦々より、学者/市民、先生/学生の区別なくさまざまな方々に参加いただいております。メーリングリスト参加をご希望の方は「vortexsitoneあっとまーくgmail.com(逆巻)」までお願いします。

 

※以下の告知用ポスターは自由にお使いください。 

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※公費申請の方は以下のプログラムをご利用ください。

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 第五回「文芸共和国の会」を以下の日程で開催いたします。

 

 日時: 2017年 2月25日(土) 13:00~17:30

 会場: 徳山工業高等専門学校 教室・管理棟二階・大会議室

[交通アクセス] http://www.tokuyama.ac.jp/campus/areamap.html
[キャンパスマップ] http://www.tokuyama.ac.jp/facilities/index.html

※JR徳山駅からはバスを利用される場合は「高専」行き(終点)か「久米温泉口」行き(高専・大学下で下車)をご利用ください(「久米温泉口」方面だと軽い山登りをすることになりますので、「高専」行きのほうがオススメです)。駐車場の利用もできますので、車で来られても大丈夫です。

※会場使用料は6000円です。当日、参加者で折半します。

 

 

(13:00~10分ほど趣旨説明)

 

① 13:10~15:10

 久保 美枝 (ラファエル前派絵画)

「バーン=ジョーンズの両性具有な絵画

         ーーペルセウス・シリーズを中心にーー」

 

 1877年5月、ヴィクトリア朝ロンドンでは、絵画の出展、展示方法に関して周到に練られた、ロイヤル・アカデミー展ともパリ落選展とも異なる、グローヴナー・ギャラリー展が開かれる。ロイヤル・アカデミー展で落選した作品は出品しないという唯一の条件のもと、招待作家たちは、作品の展示に必要なスペースをあらかじめ伝えるよう求められていた(1)。様々な趣向のこらされた展示空間を、ヴィクトリア朝文化研究者であるJ.B.ブレンは「まるで婦人の私室のようであった」と例える(2)。女性的なイメージを抱かせるほどの展示空間のありようは、ある種のきわどさを含みつつ、グローヴナー・ギャラリー展は唯美主義と連動して展開をしていく。この展覧会について数回の批評を寄せた作家ヘンリー・ジェイムズは、エドワード・バーン=ジョーンズを「グローヴナー・ギャラリーの獅子」と称したが、その手腕は幾分「クィアネス(queerness)」なところによるのだという(3)。ジェイムズは、バーン=ジョーンズの描く男性とも女性ともおぼつかない人物像について語るが、その人物像の醸し出す、男らしさ/女らしさの境界を紐とくような雰囲気は、ジェイムズのみならず、美術、宗教、医学と様々な分野の書き手たちによって、不穏なものとして評される。その不穏さとは、ヴィクトリア朝の理想・規範とする男性像/女性像を揺るがしてしまうようなバーン=ジョーンズの人物像の描き方に大いに拠る。いわば挑戦的ともいえる人物像の描き方であるが、J.B.ブレンは、19世紀イギリスの男らしさへの挑戦は、両性具有というものにあり、バーン=ジョーンズの絵画は両性具有な人物たちに満ち溢れたものであるという(4)。ヴィクトリア朝絵画において、ギリシャ神話を題材とした作品では、力強く英雄的な男性像が好まれて描かれるなか、バーン=ジョーンズはペルセウス神話を主題とした作品、連作絵画《ペルセウス・シリーズ》では、甲冑を纏った力強い女神を描き上げている。騎士を思わせる女神の姿には、男性化してしまった女性像をみてとることができるが、同時に、騎士という姿における男性的なものを揺るがせてしまう危うさも秘めているだろう。本作品は未完に終わっているが、その要因には、メデューサの登場する場面において、メデューサ像そのものが構想途中のままであることが深く結びついているだろう。《ペルセウス・シリーズ》での人物描写に着目をし、男らしさ/女らしさの境界を曖昧にさせるような人物像たちによって繰り広げられる、バーン=ジョーンズによる神話世界を読み解いていきたい。

 

(1) Christopher Newall, The Grosvenor Gallery Exhibitions: Change and Continuity in the Victorian Art Word, (Cambridge University Press, Cambridge, 1995), pp.13-14.
(2) J.B. Bullen, The Pre-Raphaelite Body: Fear and Desire in Painting, Poetry, and Criticism, (Oxford University Press, Oxford, 2005), p.151.
(3) Henry James, “The Pictorial Season in London 1877”, The Painter’s Eye: Notes and Essays on the Pictorial Arts, in John L. Sweeney (ed.), (The University of Wisconsin Press, Wisconsin, 1989), p.144.
(4) J.B. Bullen, The Pre-Raphaelite Body, p.186.

 

参考文献: 加藤明子他著.『もっと知りたいバーン=ジョーンズ 生涯と作品』. アート・ビギナーズ・コレクション. 東京美術, 2012.

予習用参考サイトリンク➡ The Victorian Web (www,victorianweb.org)

 

② 15:30~17:30

 瀧波 崇 (映画理論)

「Jホラーのリアリティ

           ーーなぜその映像は怖いのか?ーー」

 

 1960年頃に映画の観客動員数、邦画の公開本数ともにピークを迎える。しかしその後、またたく間に減少し、1980年代から90年代にかけては、観客動員数はおよそ10分の1、公開本数は半分になった。ところが1990年末頃から観客動員数、公開本数ともに増加に転じる。この時期に大ヒットしたのが、いわゆるJホラーの作品群である。『リング』(1998)は興行収入10億円を突破し、その後制作された『リング2』(1999)と『リング0 バースデー』(2000)は、ともに『リング』の興行収入を超えた。また『リング』や『呪怨』などはハリウッドでリメイクされ、全米でも大ヒットを記録している。さらにオリジナル版で監督をつとめた中田秀夫(1961〜)、清水崇(1972〜)は、リメイクの際にハリウッドで監督デビューを果している。このように、Jホラーが日本映画に果した役割は大きい。では、Jホラーとはどういうものであったのか。
 Jホラーとは、いうまでもなく Japanese Horror のことであり、リメイクされた『The Ring』(2002)『The JUON/呪怨』(2004)が全米で大ヒットしたのち、日本でも使われるようになった言葉である。おもに1990年代以降の日本のホラー映画を指す。
 『リング』と『呪怨』はJホラーの代表作であるが、それらの脚本家、監督たちは口々に「小中理論」の影響力の大きさを語っている。小中理論とは、脚本家である小中千昭(1961〜)が本当に怖いホラー映画を制作するために編み出した理論のことである。Jホラーの作品群に対する、この小中理論の影響力は大きい。そこで本論では、小中理論から、Jホラーがどういうものであったかを読み解いていく。いいかえれば、小中理論の実践として、Jホラーの作品群をとらえるというわけである。
 小中理論は「ホラー映画とは何か」という問いから始まり、ホラー映画とそうでないものを慎重に区別し、さらに本当に怖い映画に必要なものと必要でないものを説明する。小中理論とは、本当に怖い映画に必要なものを探求する試みであったわけである。またその試みは『リング』の脚本家である高橋洋(1959〜)や『リング0 バースデー』の監督である鶴田法男(1960〜)らとの関わりの中で洗練され、実践されていく。小中理論から読み解くことで、Jホラーが、本当に怖い映画を模索するムーヴメントであったことが見えてくる。
 小中理論では、とりわけ幽霊の表現に注力しており、そのために「心霊写真」の手法と、またそれを成立させるための徹底したリアリティを追求している。心霊写真とは、実際にあった風景を写している写真に、写るはずのないものが写っていたり、写らねばならないものが写っていなかったりするものをいう。また心霊写真の手法とは、映画の中にそうした映像を紛れ込ませることをいう。だがその手法を成立させるためには、映像を「実際にあった風景」のように見せねばならない。そこで小中が取り入れたのは、ドキュメンタリーの手法である。ドキュメンタリーの映像は、「実際にあった風景」として私たち観客に提示される。小中の脚本家としてのデビュー作である『邪願霊』(1988)では、ドキュメンタリーのような映像のなかに、写るはずのないものを紛れ込ませることで、物語を超えて、観客を恐怖させる映像をつくり出している。
 

 参考文献・映像: 

 ①ジャック・オーモン著・武田潔訳「視点」(岩本憲児・武田潔斎藤綾子編『「新」映画理論集成2』フィルムアート社)

 

 ②小中千昭脚本/石井てるよし監督『邪願霊』(1988)

 ③小中千昭脚本/鶴田法男監督『ほんとにあった怖い話』(1991)
 ④小中千昭脚本/鶴田法男監督『ほんとにあった怖い話 第二夜』(1991)
 ⑤高橋洋脚本/中田秀夫監督『女優霊』(1996)
 ⑥小川智子・鶴田法男脚本/鶴田法男監督『亡霊学級』(1996)
 ⑦高橋洋脚本/中田秀夫監督『リング』(1998)

 ⑧小中千昭脚本/清水崇監督『稀人』(2004)

 

    

 

同日18:30~、JR徳山駅周辺にて懇親会を開催する予定です。会費は4千円程度の予定です。どなたでも参加できます。

出席希望は「vortexsitoneあっとまーくgmail.com」、逆巻までemailで通知願います。
〆切は2月11日(土)。
準備の都合上、事前の出席通知をお願いいたします。
領収書も用意しております。

 

 第五回徳山大会をもって、文芸共和国の会は一周年を迎えることとなりました。細く長くをモットーに、地道に積み上げてきました。会員はおらず、会費はなく、参加資格はなく、もっぱらメーリングリストを使ったやりとりだけで運営しているせいで、毎回参加者の顔ぶれが変わるし、当日までどれぐらいの参加者が来るのかまったく分からない、というスリルとサスペンスを味わいながら、ここまでやってきました。文化インフラに乏しい地方にさまざまな分野の方が集まって、噛み合っているのかどうかわからない対話を重ねていくこと自体に意義はあると信じて、一裏方としては今年も変わらず地道にやっていきたいと考えております。

 未体験なので不安だという方、人見知りの方、そんな専門外の難しいことはよくわからないという方。大丈夫です。おそらく条件は毎回わたしと同じです。社交辞令は不要です。基本的に名前も身分も聞くことはありません。年功序列もありません。学術的関心があれば十分楽しめます。全然知らない領域のことを理解するきっかけさえつかめばそれで十分です。

 ファシリテーターを務めるわたしも毎回、ゼロから専門外のことを学んでいますし、もともと全然社交的な人間ではありません。ただわからないことや知らなかったことについて考えることが好きなだけです。ハードルは低いのでご安心ください。思いがけない出会いを楽しみにしています。

                               (文責: 逆巻しとね)