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文芸共和国の会

考えるためのトポス

第5回@徳山高専レヴュー

 文芸共和国の会世話人を務めております、逆巻しとねです。

 2/25(土)第5回「文芸共和国の会」@徳山工業高専の報告をします。

 わたしのうっかりで国公立大学の二次試験と日程が被ってしまい、来場できなくなったという方が多くおられました。申し訳ありませんでした。しかし心臓を破ったのちに下半身の後ろ身頃をまんべんなく筋肉痛が襲うという噂の、あの地獄坂を登攀し終えた健脚自慢の精鋭10数名が、西日本各地から集いました。一般の方の参加があったのも心強い限りです。今回も例によって初参加の方々を迎え、会の議論、懇親会、そして二次会に至るまで盛会でした。この場を借りて御礼申し上げます。

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 肝心の発表ですが、通常運転の二本立てでした。まずラファエル前派や唯美主義、アーツ・アンド・クラフツ運動に深く掉さす画家エドワード・バーン=ジョーンズの連作《天地創造の日々》及び《ペルセウス・サイクル》の男性表象をめぐる久保美枝さんの発表、それから現在Jホラーと呼ばれている日本映画の一ジャンルの成り立ちを通覧、とりわけ中心的な役割を果たした小中千昭の「小中理論」とJホラー嚆矢の一作『邪眼霊』の絵解きをする瀧波崇さんの発表が行われました。以下、わたしの記憶の及ぶ限りでレヴューしてみます。

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 久保さんのバーン=ジョーンズ論は、神学者を志してオックスフォードに入学、ウィリアム・モリスと出会い、ジョン・ラスキンの影響を受けイタリア芸術に目覚め、芸術家に転身、といった画家の来歴を簡単に紹介するところから始まりました。ラスキンの後ろ盾もあって徐々に頭角を現したバーン=ジョーンズはスキャンダルに見舞われます。すなわち、1870年にオールド・ウォーターカラー協会に出品した《ピュリスとデモポーン》のなかで外性器を露出している男性デモポーンの裸体が物議を醸し、同協会を脱退することになったのです。

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(By エドワード・バーン=ジョーンズ - pQHm7BaZKDY-VQ at Google Cultural Institute, zoom level maximum, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=29660166

 

 失意の渦中にあった画家は、ミドルトン・チェイニーの教会窓のステンドグラスのデザインにとりかかります(久保さんのご指摘では、スタッフォードシャー、タムワースのChurch of Saint Editha(東窓のデザイン)とのことです)。これが球体を抱えた天使によって天地創造の7日間を表現した1870-76年連作《天地創造の日々》でした。一連のプロジェクトで作品として結実したのは、モリス商会が実作に携わったステンドグラスだけではありませんでした。このデザインをもとにしたスケッチと水彩画は、イギリス絵画の保守本流を成すロイヤル・アカデミー展の向こうを張る意図で企画された第一回グローヴナー・ギャラリー展に出品されます。そして、地球のごとき球体に創世記のイメージを投影するという画家の構想は、ヘンリー・ジェイムズに絶賛されることになります。

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(《天地創造の日々――五日目》By carulmare - http://www.flickr.com/photos/8545333@N07/4121982170/, CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=30366862

 

 しかし久保さんが注目するのは、ヘンリー・ジェイムズが天使の性別に執心する姿です。

 all his young women conform to this languishing type with a strictness which savours of monotony. I call them young women, but even this is talking a grosser prose than is proper in speaking of creatures so mysteriously poetic. Perhaps they are young men; they look indeed like beautiful, rather sickly boys. Or rather, they are sublimely sexless, and ready to assume whatever charm of manhood or maidenhood the imagination desires. The manhood, indeed, the protesting critic denies; that these pictures are the reverse of manly is his principal complaint.  (http://vickysands.com/01/14/336.htm)

乙女だとも少年だともいえる天使の姿に、ジェイムズは当惑しているようです。さしずめこれが男性性の魅力か、乙女の魅力かは、鑑賞者の想像力の如何に委ねられており、「無性」とでも言っておくのが無難であろう、といった口ぶりです。しかし特筆すべきは、この連作を批判するものは、この天使が男らしさの対極を行くところに非難の矛先を向けるだろう、と評者がつけ加えている点でしょう。「無性」は性差に由来する女性的な要素とは関連せず、もっぱら既存の男性的な表象を否定する要素に重ねられている。しかしジェイムズは、「無性」を画家の構想力の偉大さを示す表現のひとつとして評価します。上の引用のあと、天使が柔和さと倦怠の色を帯びつつも、同時にそこには蠱惑的な純粋さが宿っている、と「無性」の天使を画布上に顕現させたバーン=ジョーンズの構想力を称賛するのです。あくまでもわたしの個人的な思いつきに過ぎませんが、もしかしたら「無性」を男女の差異ではなく、あくまでも女性性を排除した男性性内部の抗争として記述するジェイムズの論法をみると、この「無性」が革新性や新しい美のイデオロギーとして必要とされたのは、アカデミーという父権的なものに対抗する男性作家の集団を可視化するためだったのかもしれません。

 無性の天使は、ロイヤル・アカデミーの基準となっていたミケランジェロのような筋骨隆々の男性像を描けない、バーン=ジョーンズの素描力の未熟さを裏書きするのか、あるいはジェイムズが称賛するように彼一流の想像力の閃きを証言するのか。いずれにしても同時期には、ウォルター・ペイターを理論的支柱とする唯美主義運動が高まりを見せていました。写実とは異なる、中空に浮遊するがごとき美の観念そのものを捉える唯美主義の趨勢に、バーン=ジョーンズの画風はうまく適合したということも言えるでしょう。(※とりわけ、《天地創造の日々》の額入り写真複製6点をバーン=ジョーンズから受け取り、感激したと伝えられるフランス象徴派のギュスターヴ・モローとの影響関係は特筆しておくべきでしょうか。ともかくも連作《天地創造の日々》には、ロイヤル・アカデミーに対抗する形で開かれたグローヴナー・ギャラリー展の劈頭を飾るにはうってつけの奇抜さが認められていた、という事実は銘記しておくべきです)。このような背景に鑑み、主流派の男らしさを否定し人間の性別を超越する唯美的な表現として、バーン=ジョーンズの天使を評価することもできるでしょう。

 しかし男らしさの控除は天使の表象だけにはとどまりません。実際にスキャンダルとなった前掲《ピュリスとデモポーン》をはじめとして、バーン=ジョーズはほぼ一貫して男性像を男らしからぬ存在として、ジェイムズの評を借りれば “queer”な存在として描き続けた作家でした。1875年から90年代にかけて制作されながら完成をみることは叶わなかった《ペルセウス・サイクル》と呼ばれる作品群もまた男らしさの表象に関するさまざまな謎を秘めていました。

 ギリシア由来のペルセウス神話と言えば、ゴルゴン三姉妹を打ち倒し、アンドロメダを救うべく竜退治に挑み、名を馳せた英雄として知られています。実際、ペルセウス神話をモチーフにした絵画は、ペルセウスの力強さや雄々しさを強調する筆致、またそのために適した情景を選択するのが常でした。しかしながら、バーン=ジョーンズの描くペルセウス神話はどこか趣が異なります。連作のひとつめ《ペルセウスの召還》ではぺルセウスに剣と鏡を賦与する女神アテーナのほうがのちの英雄よりも遥かに雄々しく描かれています。自信なさげにアテーナを見上げるペルセウスの体躯は裸体のまま、それも痩身で、英雄とは言い難いのは一目して明らかでしょう。さらには、《ピュリスとデモポーン》と同様、男性のヌードを正面観で描いている点も見逃せません。

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(《The Call of Perseus, 1877》 By エドワード・バーン=ジョーンズ - [1], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=39895663

 

 重ねて、《ペルセウスアンドロメダ》のペルセウスにも同様の傾向は見られます。

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(《Perseus and Andromeda》 By Edward BURNE-JONES (1833 - 1898) (Britain)Born in Birmingham, England. Dead in London.Details of artist on Google Art Project - NgEDBYoddsZlBw at Google Cultural Institute maximum zoom level, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=23600995

 

 また《運命の岩》のペルセウスは鎧を身にまとっているものの、あまり猛々しい感じはなく、どちらかといえば、弱々しい裸体の延長線上にあるように見受けられます(久保さんはアカデミー派のアンドロメダ表象と比較し、バーン=ジョーンズのアンドロメダには男性の鑑賞者を悦ばせる性的な要素が欠けているという指摘もされていました)。

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(《The Rock of Doom (The Perseus Cycle 6) (c. 1885-1888)》 By エドワード・バーン=ジョーンズ - [1], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7541656

 

 さらに《果たされた運命》に至っても、ペルセウスが竜を力づくで打倒するという物語性は希薄で、どちらかと言えば竜に巻きつかれている受動的な姿が印象に残ります。

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(《The Doom Fulfilled》 By エドワード・バーン=ジョーンズ - Staatsgalerie Stuttgart, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=30168283

 

 このように、バーン・ジョーンズの描くペルセウス神話は、英雄が美女を救うという王女救出譚、あるいは騎士道物語の性格は弱く、ギリシア神話や聖書への言及も仄めかされてはいてもそれほど明確なヴィジョンとして顕在化しているわけでもないようです。久保さんの解釈にもこの異教の物語に範をとった連作における性的表現の抑制をキリスト教世界の精神性の表現と結びつけたり、《不吉な首》の水鏡の8角形にキリストの復活を読みとったりと、試行錯誤のあとが強くにじんでいました。異教的なものとキリスト教的なものの交錯の解釈にこだわりつつも、物語的形式性の希薄さとデザイン性の高さ、そして絵画芸術における男性性の唯美主義的否定の確認をもって、発表は終わりました。久保さんのお話では、バーン=ジョーンズ研究そのものがまだ美術史においてそれほど盛んになされているわけではなく、事実上手探りで解釈をしなければならない状態にあるとのことで、その意味では自らけものみちをつくりこの踏破を試みる発表であったかと思います。

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(《The Baleful Head》 By エドワード・バーン=ジョーンズ - Web Gallery of Art:   Image  Info about artwork, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15452102

 

 討議は、《ペルセウス・サイクル》の解釈を中心に行われました。《ペルセウスの召還》には、しゃがみこむペルセウスとアテーナから鏡と剣をもらうペルセウスというふたつの場面が同居しているという久保さんによる補足。《果たされた運命》の竜は、ペルセウスにまとわりつき、その動きを制約・抑制する形象となっているのではないか、という指摘。《運命の岩》のペルセウスは兜を脱いでアンドロメダを認めたという久保さんの解釈に対し、アンドロメダの向こうに視線が向いているのでペルセウスは竜を認めて兜を被るところなのではないか、というディテールに踏み込んだ鋭い指摘。騎士道にもさまざまなモードがあり、これは騎士道に則っているという即断は避けたほうがよいのではないか、という意見。バーン=ジョーンズの絵画はギリシア的でもなければキリスト教的でもない、単に美的なのではないか、という解釈。デッサン力に欠けるという意見。《不吉な首》の水鏡の8角形に寓意的な含意はなく、そのほうがペルセウスアンドロメダが腕を置きやすいという人間工学的観点からそうなっただけではないか、あるいは、8角形にしたほうが奥行きを表現しやすいからではないか、という議論。またバーン=ジョーンズの絵画はどれも反遠近法的であり、平面的である、という意見(このあたりはフランス印象派が巻き起こしたスキャンダルを思わせるところがあります)。また、美術史における男らしさの規範はどこにあったのかという質問。その他、さまざまな意見が飛び交いました。

 わたしとしましては、バーン=ジョーンズと同じモチーフを扱っているアカデミー派の絵画との比較、そして美術の先端と目されているフランスやドイツの作品を論じるヘンリー・ジェイムズやジョン・ラスキンの論との比較を精緻にすれば、もう少しバーン・ジョーンズ作品の特徴や受容のされ方が明確になるのではないかと思いました。特に同時代の言説のなかにバーン・ジョーンズを位置づけたいという欲望と、その作品に久保さん独自の解釈を施したいという欲望が混在している点は気になりました。受容史と作品解釈の区別をはっきりさせて論じないと、両者が交錯するおもしろさが半減してしまうのではないかと危惧するゆえんです。しかし、絵画の専門家のいない状況で、議論は活発になされました。思ってもみない斬新な解釈がフロアより聞けたのは、久保さんのバーン=ジョーンズ作品に真っ向からぶつかる真摯な「正面観」に各自が刺激を受けたからであろうと思います。

 

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 休憩を挟んで、福井からお越しの瀧波崇さんに、Jホラーと小中理論の再検討に関する発表をしていただきました。

 まず瀧波さんの発表は、「Jホラー」と呼ばれる映画ジャンルが誕生した背景の解説から出発しました。「Jホラー」が登場した1990年代末まで日本映画は低迷期にありました。劇場公開の主流を占めるのはハリウッドの大作ばかりで、日本映画は公開本数や興行成績においてもプレゼンスは低かった。ホラー映画に限っても、50~60年代までに隆盛を誇った「怪談映画」以降、日本での劇場上映の主流を成すのは、『13日の金曜日』を代表とするスプラッターや『ジョーズ』を典型とするショッカーといった輸入映画でした。この状況を一変させる起爆剤となったのが後に「Jホラー」と総称されることになるホラー映画群でした。とりわけ『リング』 (1998)や『呪怨』(東宝Vシネマ版 2000)は、後にハリウッドでリメイクされ、大きな旋風を巻き起こしました。同時に日本の映画コンテンツの海外進出、日本の映画人による海外での高評価といった現象も定着していきます。日本映画が市場規模を一気に拡大した背景に「Jホラー」の胎動と普及があった、という事実を無視することは難しいでしょう。

 とはいえ、90年代後半以降映画界を席巻するホラー映画群の総称「Jホラー」は、比較的最近になって確立した用語です。怪談映画特有のおどろおどろしい赤や緑の照明その他による幽霊の演出とは一線を画す、情感描写を中心とした国産ホラー映画が「ジャパニーズ・ホラー」と呼ばれたのは1996年のことでした。『リング』封切り後の1999年には「和製ホラー」という用語も登場します。しかし「Jホラー」という用語が登場するには、2004年から2010年まで行われた東宝の企画「Jホラーシアター」を待たなければなりません。落合正幸、鶴田法男、清水崇黒沢清高橋洋中田秀夫といった日本のホラー映画界を牽引してきた監督陣によるこの一連の企画が「Jホラー」という総称を確固たるものにした、と言えるでしょう。

 以上のようなJホラーと日本映画の来歴を、黒沢清の生まれる1955年から『リング0バースデイ』の2000年までのスパンで主要動向を整理した自作の年表を参照しながら解説したのち、瀧波さんはさまざまなホラー映画を十把一絡げにしたJホラーという総称の根源にいるひとりのアクターに注目します。脚本家として著名でありながら、音響・ 特殊効果・撮影に至るまでホラー映画の制作に携わってきた小中千昭の存在です。とりわけ、ホラー映画関係者のあいだでひとつの参照枠として流通していた通称「小中理論」は、Jホラー関係者に無視できない影響力を及ぼしました(※今回、瀧波さんの発表内容には、小中千昭さんへのインタヴュー取材の成果が盛り込まれていていました。小中さんのご協力に感謝申し上げます)。

 小中理論とは、怪談映画やショッカー、スプラッターを越えたより根源的な恐怖を模索するための理論仮説です。これはホラー映画の本質について甲論乙駁を交わした高橋洋小中千昭の往復書簡に由来し、のちに小中千昭『ホラー映画の魅力―― ファンダメンタル・ホラー宣言』(2003 岩波)として世に流通することになりました(『恐怖の作法:ホラー映画の技術』(2014 河出書房新社)は増補改訂版)。

 小中理論の企図は、日本の伝統的な怪談映画からの離脱と洋画ホラーの批判的継承にありました。ホラー原理主義の賭け金は、幽霊・亡霊を焦点とする恐怖とリアリティの追求に尽きます。実話報告の形式、怪奇現象の不条理さ、「呪いのビデオを見ると死ぬ」といった同じ出来事を複数の人が共有する情報の統一、生の要素を剥奪された幽霊、といったさまざまなテーゼがここには含まれますが、瀧波さんが注目するのはダン・カーティス『家』に特徴的な「怖さとは段取りである」というテーゼ、そして低予算ゆえにトビー・フーパー『悪魔の生贄』の思わぬ副産物となったドキュメンタリー効果です。この「段取り」と「フェイク・ドキュメンタリー」の交点に位置し、両者を分析する上で有効だと考えられるのが映画理論における語りの手法です。

 事前に参考文献として挙げられていたジャック・オーモン著・武田潔訳「視点」(岩本憲児・武田潔斎藤綾子編『「新」 映画理論集成2』フィルムアート社)や清塚邦彦『フィクションの哲学』(勁草書房)を導きの糸として、瀧波さんは『カリガリ博士』や『欲望のあいまいな対象』にも言及しつつ、ドキュメンタリーの次元(現実)とフィクションの次元(虚構)とを混線させるフェイク・ドキュメンタリーの手法は、映画理論における語り手とその背後に想定される作者の混同という効果をもたらす、という指摘をします。カメラの視点に作為のないことを強調するフェイク・ドキュメンタリーの手法は、物語のなかに含まれる語りとそれを安定的に構成する作者との関係を破綻させます。その結果として、観客はホラー映画をたんなるフィクションとして突き放してみることが難しくなる。作者の意図が作中の語り手の判断に還元されるとき、ホラー映画はその外部に想定されるつくり手の視点への志向を失い、映画内に限定された臨場感を獲得することになります。原理的には、フェイク・ドキュメンタリーとして制作されたホラー映画が、語り手と作者が渾然一体となったドキュメンタリーとして鑑賞されるとき、ファンダメンタル・ホラーは完成する、と言えるでしょうか。小中千昭自身、『食人族』や『ゆきゆきて神軍』といったフェイク・ ドキュメンタリーの影響を受けている、と瀧波さんは指摘します。いずれにしても、以上のような「段取り」と「フェイク・ドキュメンタリー」という小中理論の鍵概念が具体化したのが、小中が脚本・音響・美術を担当し、ドキュメンタリー作品の監督としても活躍していた石井てるよしを監督に迎えた、Jホラーの嚆矢と目されるビデオ作品『邪眼霊』(1988)でした。以下は、『邪眼霊』 の映像を確認しながら進められました。

 『邪眼霊』は、当時実在した女性アイドルを売りこむプロジェクトを取材したドキュメンタリー映像の再編集版ビデオテープという設定をとっています。本来はテレビ番組として制作されたものの事情によって放送されなかったビデオ素材を、作中、レポーターとディレクターが再編集していきます。一度通り過ぎたシーンに幽霊が映りこんでいることを映画内の視点人物がテープを巻き戻して指摘し、視聴者と共に視認する。こうして語りの現場のなかに視聴者は埋没していくことになります。再編集の現場に視聴者も居合わせ、 幽霊が映りこんでいる映像を作中人物と一緒にクロース・アップで目撃することになるからです。

 小中千昭の目論見は、フェイク・ドキュメンタリーの手法を使って、ビデオをつくった作者とビデオの中にいる語り手の区別を不分明にし、作者の意図の存在を宙づりにする演出に求められるでしょう。視聴者は、主体的に映像の客観性を信じることになる。つまり、視聴者はなんらかの物語を見ているという感覚を失い、自らが視聴しているビデオのメディア的特性に従って、作品内の視点人物に倣ってこれを巻き戻し、幽霊が映りこんでいるシーンを確認するに及ぶ。恐怖を演出する小中をはじめとする制作陣の「怖がらせてやろう」という外在的な意図はカッコに入れられ、視聴者が見ているビデオと視聴者の内面に行き場のない恐怖は圧縮されることになります。

 瀧波さんの発表は、煎じ詰めればJホラー実作の強力な参照枠となった小中理論と、映画の原理に理論的に肉迫する映画記号論の接点を探るものであった、と結論づけることができるでしょうか。対話の時間に指摘があったように、実際に小中千昭は映画記号論で学位を取得してもいます。こうしてみれば、Jホラー論の射程は、同時代の文化的事象にとどまらず、「映画とはなにか」という原理的な問いにまで届くことがわかるでしょう。ファンダメンタル・ホラーは、恐怖とリアリティの追求であると同時に、映画の根源をえぐる試みでもあるわけです。Jホラーが日本映画復活の狼煙となり、ハリウッドにまでその影響が波及した理由は、ここに明らかでしょう。

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 瀧波さんの発表後の対話の時間は、ホラー愛好家とホラー嫌いが一堂に会してホラーを語るという大変ユニークなものになりました。Jホラーを論じる際に語りの理論を援用するのは適当なのか、つまり、Jホラーは視聴者に恐怖感を催させるための「段取り」を用意するものであり、物語ることに関心はないのではないか。この段取りを浮き彫りにするためにも、認識できないもの、得体のしれないもの、理解できないもの、“it follows”をめぐる感情の考察が必須となるのではないか。『邪眼霊』にディレクターとして登場する竹中直人のような著名な俳優は、登場人物が役者であることを強く意識させるために、フェイク・ ドキュメンタリーの徹底を邪魔するのではないか。ファンダメンタル・ホラーを論じるのであれば、映画記号論における語りの理論だけではなく、ホラーという感情そのものについても論じる必要があるのではないか。小中理論とJホラーの実作は互いにもつれあいながら並走していて、理論と呼ぶには厳密性を欠くのではないか(これに関しては、わたしは小中理論を実践に対する理論という構図に即して捉えるのではなく、ひとつの「ライトモチーフ」として考えたほうがいい、と今は思います。特に『呪怨』のようなアンチテーゼを考慮する場合は、ライトモチーフへの応答、あるいはその変奏という視点が欠かせないでしょう)。怪談映画における赤・緑の照明と『リング』における自然光。『女優霊』と『リング』の幽霊表象の比較。『稀人』に代表されるメタ映画的構造。幽霊とフレーム外、不鮮明さ。小説を原作としたJホラーの原作との比較。ハリウッドの翻案とJホラーの比較。ラヴクラフトのコズミック・ホラーとファンダメンタル・ホラーの近さ。フェイク・ドキュメンタリーとフロイト「不気味なもの」。とどめに、なぜ人はホラー映画などというおぞましいものをわざわざ見るのか、という根本的な疑問も呈されました。ホラーを忌避する心情がホラー映画の構成的外部として働いている、つまりは両目を覆う指の隙間からおぞましいものとわかっているものを厭いつつもつい覗いてしまう、恐怖と好奇心の入り混じった背反的な感情こそが、ホラー映画をつくる/見るという共犯性の淵源にあるのかもしれません。

 

 以上、わたし逆巻の記憶に即した発表と討議の回顧でした。以下の発表者おふたりの感想をもってレヴューを締めくくります。  (以上、文責: 逆巻しとね)

 

                第5回文芸共和国の会を終えて

                                 文責: 久保 美枝

 2月25日、徳山工業高等専門学校で行われた第5回文藝共和国の会での発表を無事終えることができました。第5回目の日程が決まった後、会場の準備・手配のみならず懇親会をも含めて会が終了するまで、高橋愛先生には始終お世話になりました。そして、会の進行役を務めてくださった逆巻しとね氏、また発表を聞いてくだいましたみなさまにお礼申し上げます。質疑の時間では、様々な質問や意見をいただくことができました。その場で書き留めた私のメモをもとに、当日いただいた意見を大よそではありますが紹介し、それらを踏まえて今思うことについて簡単ですが報告させていただきます。
 「バーン=ジョーンズの両性具有な絵画-ペルセウス・シリーズを中心に-」と題して、19世紀イギリスで活躍した芸術家、エドワード・バーン=ジョーンズ(1833-1898) の描いたペルセウス像の男性性について考察しました。ヴィクトリア朝期の絵画の描かれた男性像について、Joseph A. Kestnerは著書『Masculinities in Victorian Painting』のなかで、ギリシャ神話の英雄、勇敢な騎士・兵士、家父長制、男性のヌードといった特定のモチーフによって、様々な男性像が多層的に描かれていることを論じ、なかでもバーン=ジョーンズの描く男性像は、これらをモチーフにしつつ、しかし意表をつくような男性像であることを指摘しています。本発表は、Kestnerの論じた、ヴィクトリア朝中期から後期にかけての絵画における男性性について念頭に置いてはいたものの、その引用が抜け落ちていたことに加えて、絵画表現にみる「男らしさ」というものを明瞭にしていなかったため、ヴィクトリア朝期のどの時期の男性性について論じているのか、男らしさというものをどのように定義するのか明確にすべきではないかというご指摘を受けました。またバーン=ジョーンズの描いたペルセウス像を騎士道、そしてキリスト教的世界観と重ね合わせながら読み解く試みは、先行研究においてもなされていることですが、これについて、シドニー・ペインターが論じたように騎士道といってもさまざまな概念があることから、バーン=ジョーンズ絵画にみる騎士道というものがどのようなものであるか具体的に示す必要があるのではという指摘もありました。《ペルセウス・シリーズ》ではキリスト教絵画のモチーフが見受けられる構図を取っていますが、そのことに関して、宗教的側面を打ち出すことよりもデザインを重視したがためのモチーフ選びではないだろうかという意見もいくつかありました。本発表ではペルセウス像の男性性に着目して考察を行いましたが、アンドロメダ像におけるナルシシストな側面を指摘される意見もありました。最後に、バーン=ジョーンズの描くペルセウス像が非常に受け身的な姿で描かれていることについて、そこにはキリスト教における受動的なあり方、世界観の顕れではないだろうかと、そしてこれを土台として絵画空間がデザインされているのではないかと、みなさまのご意見を頂いて今なおこのように考えています。様々なご意見をありがとうございました。今後の研究につなげていければと思います。
 

 

                                 文責: 瀧波 崇

 まずは、当日ご参加いただきましたみなさまに、感謝申し上げます。拙い発表でしたが、最後までおつきあいくださり、誠にありがとうございました。さまざまな専門分野の方々から、貴重なご意見を多数賜り、おかげさまで、たいへん刺激的で、充実した時間を過ごすことができました。

 いわゆるJホラーは、一般的には日本の伝統的な怪談と結びつけられて語られることが多いようです。確かに、怪談もJホラーも、幽霊を恐怖の対象としていますし、Jホラーの代表的なキャラクターである貞子と伽倻子の衣装も、一見、白装束のようです。実際はワンピースですが。しかしJホラーの作品群に多大な影響力をもつ、小中千昭氏の制作理論から考察することで、伝統的な怪談をモチーフとした映画からの脱却も含めた、新しいホラー映画、小中氏の言葉を借りれば、本当の意味でのホラー映画の実験であった、ということが見えてきます。昨今では、Jホラーが低迷しているとも言われますが、その実験は単にジャンル映画の追求にとどまらず、映画の映像の本質に迫るものであり、海外で高く評価されたことが決して偶然ではなかったこと、またそれが、小中氏と問題意識を共有する脚本家、監督たちの努力によるものであったことをお伝えできれば、という思いで発表に臨みました。

 現在は研究とはまったく関係のない職に就いており、大学院の先輩で、同じ日に発表された久保美枝さんから発表のお話をいただくまで、ほとんど勉強をしていませんでした。事前に、さまざまな専門分野の方だけでなく一般の方も参加し、発表と同じくらいの時間、議論をするとうかがっていましたので、どんな質問をされるのか、そもそも議論に堪えうるだけの発表ができるのか、不安でなりませんでした。しかしレヴューにもありますように、ホラー好きの方からホラー嫌いの方まで、さまざまな視点からのご意見、ご指導を頂戴することができました。これらのご意見、ご指導は、私にとって、勉強不足を痛感させられるものであったと同時に、励みともなりました。これからも、みなさまのあたたかいご意見とご指導のもと、研究を続けていこうと思います。

 遠方からの参加で、逆巻しとねさん、高橋愛さん、久保さんにはたいへんお世話になりました。ありがとうございました。これに懲りず、またお声がけいただければ幸いです。また今回の発表で、突然の申し出にもかかわらず、快く取材に応じていただきました小中千昭氏に、心よりお礼申し上げます。