文芸共和国の会

考えるためのトポス

12/1 第12回文芸共和国の会シンポ「性とモノ」(無料)

※ 11/30にはトマルビルでプレイベントとして菅実花アーティスト・トークが開催されます。

 詳細は↓

republicofletters.hatenadiary.jp

※ 各発表の概要を追加しました(11/08)

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※公費申請用プログラム

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※ 19:00~、鹿児島市内にて懇親会を開催します。会費は一般4.000円・学生2,000円(人数次第で学生の会費はできるだけ無料に近づけます)。出席希望はvortexsitone@gmail.com(逆巻)に11/17までにお知らせください。領収書が必要な方はその旨、併せてお知らせください。

 

※文芸共和国の会メーリングリスト登録希望者は、逆巻(vortexsitone@gmaiil.com)まで「氏名」と「専門 or 関心領域」を明記の上、ご一報ください。本会の趣意に賛同いただける方であれば、資格は不問です。

 

第12回文芸共和国の会シンポジウム

 

「生が、性が、モノモノしい」

                      ――Bio-diversity is Materializing――

 

(予約不要/誰でも参加自由/無料/途中入退場自由)

 

日時: 2018年12月1日(土) 12:00~18:00 (プレゼン終了後、参加者全員で対話)

会場: 鹿児島大学 郡元キャンパス 法文学部1号館 102号室

  (〒890-0065 鹿児島県鹿児島市郡元1丁目21−30 ℡ 099-285-7517)

  鹿児島中央駅から鹿児島大学法文学部までの経路案内→Google マップ

  キャンパスマップ(会場=64番)https://www.kagoshima-u.ac.jp/about/map2018-korimoto.pdf

問い合わせ先: 太田純貴(鹿児島大学
       【e-mail】yota@leh.kagoshima-u.ac.jp
       【TEL】099-285-7576

 

出演: 菅 実花    (アーティスト)

    藤田 尚志    (フランス哲学)

    関根 麻里恵 (ラブドール研究)

    猪口 智広    (科学論・動物論)

  

 

性とモノとバケモノ(仮題)

                                       藤田 尚志
 
 「あの人をモノにする」とき、人はモノに化ける。愛と性、情動と経済の関係をどう考えるべきか。マルクスは『資本論』第一部草稿において、明らかに「物象化」を批判的に考察しており、例えば皮革や靴型などの生産手段が靴職人を「使用する」という事例において、モノは或る種の主体性・能動性を帯びる。「モノ(Sache)と人(Person)とのこのような転倒(Verkehrung)、したがってその資本主義的性格」を精確に見て取っている。だが、モノと人格の転倒が問題なのではなく、それが「資本主義的性格」、つまり「所有」のパラダイムのうちで行なわれていることに問題があるのだとしたら?
 「人のモノ化」というマルクスの問題系を、「脱=所有」のパラダイムにおいて最も前進させたのは、フランスの特異な文学者・思想家ピエール・クロソウスキーの小説『歓待の掟』および思想的エッセイ『生きた貨幣』である。「生きた貨幣」とは端的に言えば、労働の支払いとして使用権を差し出された人間の身体である。「それは、情欲の源泉である生きた対象を、飼育の次元に、種馬飼育場の次元に貶めることだ」、人間の身体や情愛を経済的尺度で評価することは許されない(動物の身体や情愛ならば許されるのだろうか?)という異論もあろう。だが、情欲の対象たるアイドルやスターの視聴覚的美点の数々を、いやもっと一般的に私たち労働者の生産能力を――「人材開発」「ヒューマン・リソース」という言葉が一般化して久しい――、収益性や維持費の観点から、数量的に表現しているのは、現代社会を支える当の産業主義そのものではないのか。死んだ貨幣に対置された「生きた貨幣は逆に、習慣の中に根を下ろし、経済的諸規範の中で制度化された金本位制の、その金の役割に取って代わる力を持つだろう。ただし、その新しい習慣は、交換行為の数々とその意味を、深く変えずにはいないだろうが」。そのとき、「人間の尊厳は手つかずのまま残されており、金銭はその価値のすべてを維持している」。これはバケモノ的なことだろうか?
 当日は以上の議論をより詳細に詰めることになるかもしれないし、別の著者たちを扱うことになるかもしれない。というのも、「脱=所有」「共有」の方向へ進もうとする新たな読解は、意識・主体・個人・人格といった哲学の主要概念の捉え方も変更せずにはおかないからである。その意味では、未だに愛・性・家族の領域において本格的に扱われたとは言えない哲学者たち、例えば現代フランス哲学者ジルベール・シモンドン――鹿児島大学の近藤和敬が訳者の一人となって、主著『個体化の哲学』の翻訳(法政大学出版局、2018年)が刊行されたばかりである――や、『理由と人格――非人格性の倫理へ』という大著(勁草書房、1998年)を刊行したアメリカの哲学者デレク・パーフィットが当日取り上げられたとしても大きな驚きはないだろう。

 

ラブドールは異人か隣人か

――ヒトとラブドールの関係性を検討する


                                      関根 麻里恵

 

 菅実花が産み落とし、世に送り出した「未来の母(=妊娠するラブドール)」は、古今東西で描かれてきた人工的身体や人工生命をテーマにした作品群がほとんど達成し得なかったことを成し遂げたと言えるだろう。それは、昨今のテクノロジーの進化によって実現するかもしれない、モノによるヒトの「再生産(=生殖)」である。鑑賞者は、まるで本当にラブドールが妊娠したかのような反応――女性が産む身体から解放されるといったポジティブなものから、神への冒涜、女性の尊厳を侵害しているといったネガティブなものまで――を起こし、インターネット上でもさまざまな意見が飛び交った。
 菅が提示した「未来」は、限りなく現実味のあるフィクションだ。しかし、現実のラブドールは万能ではない。むしろ、助けを借りなければ動くことすら困難な、非常に心もとない存在だ。岡田美智男がいうところの「弱いロボット」に近い。ロボットの存在が完全・完結したものではなく不完全・不完結だと捉え、ヒトから助力を引き出すことでヒトとロボットがコミュニケーションをとっているかのように感じられるラブドールとのコミュニケーションも同様のことが言えるのではないだろうか。
 本発表では、いわゆるセクサロイド化するラブドールからは敢えて距離をとる。なぜならば、ラブドールセクサロイドではコミュニケーションのとり方が異なるうえに、人工知能などのテクノロジーと結びつくことで、畏怖や脅威の対象(モノモノしいモノ)として語られてしまうからだ。
 想像力を掻き立てられる豊穣な素材であるがゆえに、置いてけぼりになってしまったモノモノしくないラブドール。それらとの対話の仕方は、非常に素朴で誰しもができうるものである。そのことにいま一度着目し、「親密性(intimate relationship)」をキーワードにヒトとラブドールの関係性について議論を展開していきたい。

 

サイボーグの神話、堆肥の寓話

ーーハラウェイから異なる身体を想像する

                                       猪口 智広

 「われわれはサイボーグである」というメッセージには、確かに一種の預言のような希望を感じさせるものがある。「サイボーグ宣言」(1985)においてダナ・ハラウェイは、人間/動物、有機的なもの/無機的なもの、物理的なもの/非物理的なものといった区分の崩壊を指摘しつつ、来たる情報の時代における女性のアイデンティティサイエンス・フィクションに登場するサイボーグに見出した。情報技術やバイオテクノロジーの発展が実現する中で、技術的人間あるいは「ポスト人間」をめぐる議論の拠り所として「サイボーグ宣言」は頻繁に引用され続けている。
 しかしながら、ハラウェイ自身がたびたび述べているように、この「宣言」は生体と機械の融合や人間の超克についてのユートピアを掲げるものではない。むしろ人間概念を適切に批判するために、偏愛と恐怖という二極的な反応のどちらでもないような、技術への異なるまなざしの希求なのである。こうしたまなざしは、近年ハラウェイが関心を向けている動物や環境といった題材についての議論における非人間存在への視線にも通底するものでもある。
 その一方で、妊娠するラブドールという題材は、ハラウェイの論じるような非人間存在の要件をすんなりと満たすわけではない。むしろそれが体現する性質のゆえに、ある種の緊張関係すら見出しうる可能性がある。本発表では、ハラウェイが近年の著述におけるアートやフィクションの持つスペキュラティヴな語りの可能性を手がかりとしながら、ヒトならざるモノ存在へのハラウェイの議論の射程、そして表象への評価について、検討を試みたい。

 

※本シンポジウムは、平成30年度・鹿児島大学地域連携予算「鹿児島と芸術文化」(南九州・南西諸島を舞台とした地域中核人材育成を目指す新人文社会系教育プログラムの構築」)の助成を受けています。

 

文芸共和国の会は、学術的出会いの場を広島以西の地方に、2016年2月に8名の有志の協賛により立ちあげられた会です。これまで広島、山口、北九州、博多で順次開催されてきました。

しかし「会」とはいっても、馴染みの仲間が集まる内輪の相互扶助の「会合」ではなく、もっぱら今まで会ったことのない知や人と「出会う」ための会です。地元の方を中心に、学者/市井の隔てなく、共に学術のおもしろさや価値をわかちあいます。難しくてよくわからないけどおもしろい、というところから学術への関心は始まります。無知も失敗もすべて許容しつつ、学術への関心とその場で投げかけられる問いを一緒に育てていく場です。同時に、この会は、ときには読書会が、またあるときには共同研究が始まるきっかけとなる場所でもあります。

さて、鹿児島での初めての開催となる今回のテーマは、「モノと性」です。

杉田水脈議員による「LGBTには生産性がない(生殖をしないの意」という発言、さらには遡って柳澤伯夫厚生労働大臣による「女は産む機械」という発言を思い出してみましょう。多くの人がこれらの発言に反発しました。しかし国民を人口動態や出生率で計算する国家の観点から見れば、これらはある意味、当然とも言える考え方ではあります。国家にとって国民は税収を頂点とするさまざまな統計的数字の操作のための頭数でしかないからです。しかし、彼ら国民の代議士も国民もおそらく見落としているのは、LGBTであるなしにかかわらず生殖をしない人の存在であり、産ませる機械としての男の存在です。すべての人間がモノ扱いされているところから始める必要があるでしょう。

では、人間をモノ扱いする行為に対してなぜ人は怒りを覚えるのでしょうか。それは人権を蹂躙しているからでしょうか。道徳観を踏みにじるからでしょうか。人間にはモノとは異なる特別な価値があるからでしょうか。 

しかし、家族と同じようにペットを愛する人がいます。動物はモノではない、とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。もっとも、動物はおろか、二次元のキャラに恋したり、プラモデルを親兄弟よりも慈しんだり、エッフェル塔と結婚したりする人がいるという事実をどう考えたらよいのでしょうか。愛情を傾けることができるものであれば、それは人と同じように愛する対象となりえます。とはいえ、わたしたちは、動物やモノに人権や人間らしさを感じているから愛しているわけではないでしょう。人権を認めることと愛すること、ひいては性愛の対象とみなすこととのあいだには大きなギャップが存在しています。対象に与えられるもっともらしい地位より先に、愛や欲望は対象めがけてほとばしるのです。

とりあえず認めてしまいましょう。わたしたち人間は常にモノ扱いされうる存在である、と。古代ギリシャ・キニク学派の哲学者ディオゲネス(412?-323B.C.)は、「自分が死んだら死体は埋葬せず、どこかに放置して欲しい」と言ったといいます。人間の死体は、ただのモノ(自然の一部、腐った肉)に過ぎない。生きている人間もモノです。DNAやRNA、合成されるタンパク質、それから細胞によって構成され動的平衡を形成する消化器系、生殖器系、循環器系、筋骨格系、神経系は、すべて生体物質(living substance)に由来します。ロボットのような非生物とは異なるメカニクスを有する生物といえど、その命が物質に根差している点は疑いようもありません。この意味において、人間はモノである。

すると人間をモノとは異なる存在として前提する道徳的・人道的評価基準の外には、人間も動物も石もロボットも空気や水でさえも、すべて等しくモノとして捉えうる広大な荒れ野が広がっていることになるでしょう。この宇宙の存在はすべてなんらかのモノである。

あなたの愛する人が虫けらのように殺されたとき、あなたは非人道的な行為だと憤るでしょう。あるいはあなたの恋人に対する愛撫を、相手はまるでモノのように扱われたと感じることもあるかもしれません。これらは実に人間らしい感情です。しかしその感情は本当に倫理的だと言えるでしょうか。なぜあなたは自分の愛していない誰かが知らないところで虐待されているのに怒らないのか? さらにはこうも問うべきでしょう。なぜあなたは恋人を大切にするのに、目の前の石ころを蹴とばす権利があると思うのか? 猫は殴らないのに、段ボールならば叩いてもよいのか? あなたは自分がモノ扱いされたり、大切な何かがぞんざいに扱われることに憤るのに、なぜすべてのモノを大切に扱わないのか? 

人に対する扱い、とりわけ性にまつわる事柄を非人道的な「モノ扱い」という観点から非難するのを思いとどまることによって、モノをどう扱うのかという根源的な問いは始まります。たとえば、しばしば性欲処理の道具というレッテルを貼られることの多いラブドールに対する態度は、現実の人間に接するときよりも慈愛に満ちたやさしいものなのではないか。もしかしたら、傷つきやすく繊細な扱いを要求するラブドールからモノに対する態度を再考することは可能なのではないか。よそよそしく正しい規範を要求する人道的・道徳的な「人間扱い」よりも遥かに親密で倫理的な関係が「モノの扱い」から見えてくるのではないか。LGBTには生産性がない、女は産む機械だ、というような発言、DV・レイプを始めとする性暴力、性別にかかわらないセクハラにわれわれが怒るのは、人間がモノとして扱われているからではなく、等しくモノとして存在しているはずなのにその一部に対する扱いがどこか不当だからなのではないでしょうか。モノとしての平等を基礎として、性、ひいては生の多様さと特異性を、モノの扱いから学ぶとき、差別や暴力と対峙し、離散化する世界を生きる上でのひとつの別解を得ることができるのではないでしょうか。

今回の登壇者は4人です。

アンリ・ベルクソンを始めとする本流のフランス哲学の専門家として知られ、最近では現代的な問題に根差した愛・性・家族の哲学を展開する藤田尚志さん。

ラブドールを被写体にし、妊娠するアンドロイドの写真連作を発表しているアーティスト・菅実花さん。

ヒト型の性具とのかかわりから人間の性愛観の変容を研究している関根麻里恵さん。

生物学史家ダナ・ハラウェイの一連の著作を紐解きつつ科学技術や動物と人間との関係を問い続けている猪口智広さん。

まったくの異分野どうしの専門家を突き合わせ、そのあいだに対話の可能性をひらくのが文芸共和国の会の最大の特色です。登壇者の発表には、「性とモノ」というテーマと、菅実花さんの一連の作品、およびそれに関連したテクスト・インタヴュー記事への言及の他に制約は一切かけていません。登壇者たちの問いが一堂に会するとき、それはどのような模様を描くのか。それを考えるのは登壇者でもわたしでもなくみなさんです。登壇者を含め、参加者全員で車座を組み、四者四様の発表内容をベースとして3時間の議論を行います。

わからないけどおもしろい。学びがはじまる場にようこそ。