文芸共和国の会

考えるためのトポス

2/11 トークセッション「土界の時空 ダナ・ハラウェイと共‐制作の夕べ」のご案内

※企画概要+檄文

 

土界の時空
ーーダナ・ハラウェイと共‐制作の夕べーー

www.dropbox.com

 

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フライヤーおもて

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出演者プロフィール

※第11回恵比寿映像祭(2/8~24@東京都写真美術館)におけるドキュメンタリー映画『ダナ・ハラウェイ――生き延びるための物語り』(ファブリジオ・テラノヴァ監督)上映に関連した企画です。

東京都写真美術館1Fホール

①2/11(月)15:00~

  (高橋さきのによるアフタートークあり) 

②2/14(木)18:30~

③2/19(火)15:00~

 

 

日時: 2/11(月)18:30~21:30 

    (18:00開場+受付開始)  


会場: 渋谷区文化総合センター大和田

    区民学習センター2F 学習室1

      (〒150-0031 東京都渋谷区桜丘町23-21)

    

入場料: 予約 1,500円(※2/9 夜0時まで) 

     当日 2,000円

 

予約方法: 

① googleformによる申し込み

docs.google.com

② vortexsitone@gmail.com逆巻宛てに、「件名:02/11トーク」とし、[1.お名前 2.人数]を明記の上、申し込み。

 

主催: 高橋さきの/逆卷しとね

 

出演: 石倉 敏明(芸術人類学)

    高橋 さきの(生物学史/科学技術論)

    逆卷 しとね(野良研究者)

 

コメンテーター

    岩崎 秀雄(生物学者/アーティスト)

    細倉 真弓(アーティスト)

    AKI INOMATA(アーティスト)

 

構成 

第一部:1時間30分のトーク(逆卷+石倉+高橋)

    10分休憩

第二部:アーティストを交えた1時間+αのトーク

    (細倉+岩崎+INOMATAからのコメントと応答)

 

土界の民の集い

                                 逆卷しとね

 

 1985年「サイボーグ宣言」から33年、1991年邦訳から27年が経過した。Primate Visions(1989年)、『猿と女とサイボーグ』(原著1991年、翻訳初版2000年、新装版2017年、青土社)、Modest_Witness(1997年)、『伴侶種宣言』(原著2003年、翻訳2013年、以文社)、『犬と人が出会うとき』(原著2007年、翻訳2013年、青土社)、近著Staying with the Trouble(2016年)に至るまで、サイボーグという形象が重みを減じたことは絶えてない。AI熱、モバイル・デバイスの普及、機器による身体的エンハンスメント、労働環境の流動化、荒唐無稽なSociety 5.0が要求する空中戦を思えば、時間の経過とともに反応速度の加速を求められているわたしたちサイボーグの窮状と問題の深刻さを否定することはできない。

 しかしながら、ハラウェイの仕事を情報工学の体制批判へと還元することはできない。生物学・生態学の知見を背景に霊長類学やフェミニズム科学技術論に多大な貢献をしてきたハラウェイの足跡を振り返るにサイボーグや伴侶種をも包摂する、10億年単位で生物を巻きこみ繰り広げられてきた生態学的時空間がStayingにおいて前景化しているのは必然とも言える。

 ハラウェイの生態学は、理念として思い描かれたものではなく、その執筆過程からして、絡まりあった身体どうしが共になにものかへと変容していく生成の経験を体現している。ハラウェイの著作群に並ぶ名前は、いずれも本人が出会い、接触領域を共有してきた伴侶たちである。もっとも身近な伴侶であるラステン・ホグネスとカイエンヌはもちろん、リン・マーギュリス、スコット・ギルバート、マーガレット・マックファール=ンガイら生物学者、ジム・クリフォード、マリリン・ストラザーン、アナ・ツィン、エドゥアルド・コーンら人類学者、ジャック・デリダミシェル・フーコードゥルーズ=ガタリらフレンチ・セオリーの担い手、 ブリュノ・ラトゥール、イザベル・スタンジェール、カレン・バラドら科学哲学者、リン・ランドルフジョアナ・ラス、オーソン・スコット・カード、アーシュラ・K・ル=グウィン宮崎駿、そして今回のイベント開催の機縁ともなった映像作家ファブリシオ・テラノヴァらアーティスト、無名の大学院生や愛犬家、活動家、メールでのやりとりまで含まれる有象無象の伴侶たちが、批判と協働の境目なく、ゆるやかに流れるハラウェイの世界生成のアクターを演じている。

 ここ日本でも、ハラウェイの思考実践と共に生きる伴侶は数多い。「サイボーグ宣言」の翻訳を収録した『サイボーグ・フェミニズム』(初版1991年; 増補版、水声社、2001年)を上梓しいち早くハラウェイを日本に紹介した小谷真理巽孝之、「ポストモダン身体のバイオポリティクス――免疫における自己の決定」(『現代思想』1991年3月号)と「もう神のトリックはいらない――霊長類、サイボーグ、女性」(『インターコミュニケーション』2号、1992年)を翻訳した山田和子、「多文化的フィールドのバイオポリティクス」(『現代思想』1992年10月号)を高橋さきのと共訳した松原洋子、インタヴュー集『サイボーグ・ダイアローグズ』水声社、2007年)を翻訳してハラウェイの肉声を届けた高橋透と北村有紀子、『伴侶種宣言』を翻訳上梓した永野文香は決して外すことができない。他にも有象無象のコレクティヴがハラウェイと共に思考を重ねてきたはずだ。

 視野狭窄のわたしでも、伴侶の生息範囲が広範囲にわたることはみてとれる。2017年7月、『猿と女とサイボーグ』新装版刊行を記念してお茶の水女子大学で開催した、「サイボーグ宣言」と「状況に置かれた知」を読解するハラウェイ読書会(主催/高橋さきの+逆卷しとね)には僅かな告知期間にもかかわらず文系/理系問わず30名ほどの伴侶が集った。2018年1月には恵比寿ナディッフにてハラウェイからの影響を公言するアーティスト・細倉真弓と高橋さきののトークが開催され、盛況を博す。2014年から継続して「サイボーグ宣言」の文脈を取り入れ連作写真「ラブドールは胎児の夢を見るか?」を制作してきた菅実花の仕事、猪口智広という気鋭のハラウェイ学者の台頭も見逃せない。伴侶種概念を摂取し実装している、奥野克己やシンジルト、近藤祉秋らによる運動体「マルチスピーシーズ人類学」もまた欠くことのできない伴侶たちであろう。逆卷も寄稿した2月上旬創刊予定の雑誌『たぐい』は、マルチスピーシーズの共生と協働の賜物である。

 以上のような伴侶の生態系と共に、今回のイベントでは、喫緊の予感を忍ばせつつ途轍もなく悠長なハラウェイの生態学的時空間を掘り下げてみたい。この生態学は地球環境の保護や絶滅危惧種の保存、人間が人間として生き延びるための方法を拙速に模索するものではない。ヒトを多くの仲間たちと交わらせ、怪物化・キメラ化させることにより、生物の「汚らわしい」生成過程に参加させるその巧妙さは、ハラウェイお馴染みの手練れぶりである。あやとり、触手的思考、共‐制作sympoiesisといった関係生成の概念は、新しい「縁」の形成を通じこのやせ細った現在を分厚い時空間へと変貌させる手がかりとなる。ヒトはhumanではなく、腐植humus、堆肥compost、大地の者gumanへと錬成する。日銀短観と共に我が物顔で人新世を生きる人間やポストヒューマンを裁断し、ほとんど止まっているようにもみえる地質学的時間を費やし堆肥へと変えていく実践を行うアクターとして、わたしたちは登場する。土と共に。

 Staying with the Troubleのトポスは土である。地球上で平均するとたった1メートルの厚みしかない土壌にわれわれは多くを依存している。果たして、ハラウェイはそのタイトルの通り、化学肥料の濫用によってやせ細り、ラウンドアップの散布で多様な植生を失い、皆伐と焼き畑に荒らされ、石炭産業と発電所が先住民を搾取し続ける土のトラブルを語る。ハラウェイが同書の鍵語とするSFにはサイエンス・フィクションやスペキュラティヴ・フィクションももちろん含まれる。しかしこのSFは地球外を舞台とはしない。science fact, string figures, speculative feminismなど、多様な内包を膨らませるハラウェイのSFは、このトラブルまみれの大地にとどまりつつ、この地球を異種入れ食いの居住空間へとテラフォーミングする、土界の民のためのSFである。

 登壇者を紹介しよう。

 もとより高橋さきのは山河を駆け巡り、生物学・生態学の沃野に育まれてきた野生の思考の持ち主である。『猿と女とサイボーグ』と『犬と人が出会うとき』の訳者として知られる高橋が、ハラウェイに惹かれ、翻訳に着手することになった誘因は、森や土との触れ合いと語らいの愉悦である。今やフェミニズム科学技術論の論客として、特許翻訳の実務家として多忙な日々を駆ける高橋が、土界の民の一員としてStayingの土の呼びかけにおっとりと応える機会もそうはないだろう。

 文学の出自に忠実にレトリカルな読みに没頭する逆卷しとねは、11歳ごろまで土と密接にかかわって生きていた。半農の祖父母ととともに暮らす過程で、鶏と七面鳥の卵と肉に育まれ、土を耕し、カライモの苗を植え、ビワをむしり、イモリを狩り、ザリガニを釣り、蛇に怯えながら暮らしていた。書籍と人との出会いが中心の日々のなか、今、逆卷もハラウェイと共に土界の住人へとのろのろと生成している。Stayingに覚える堆肥や腐植のただならぬ魅力が逆卷をこの場へと誘う。

 高橋と逆卷のふたりがハラウェイの土壌に畝を盛るなら、種を蒔き、苗を植えるのは石倉敏明となるだろう。フィールドを経めぐりながら宗教学を修めた石倉は今土に魅せられている。田附勝との共作『野生めぐり』淡交社、2015年)に代表されるように、石倉は古今東西の文献を渉猟しつつ、各地の土を踏みしめ、習俗と信仰、儀礼の数々を踏破し、ホームでは稲田と対話を続ける農業の民でもある。石倉の土への関心は、ヴェネチア・ビエンナーレ日本館出展に向かうコレクティヴの一員となる経験にも触発を受け、東北地方に生息する獣の総称「シシ」に生成する民俗儀礼とさまざまな「ムシ」にまつわる祭礼とを縫合する生態宇宙論へと跳梁を遂げようとしている。石倉も今、ハラウェイと共に思考している。

 

 こうして、土界の民はここに寄りあうことになった。草を見つめ、蟲を撫で、雨乞いをするのは3人の責任だ。しかし刈り入れは参加者も含めたわたしたちみんなでやろう。収穫は山分けだ。

 ここで本セッション企画の機縁が、恵比寿映像祭における、ファブリシオ・テラノヴァ監督のドキュメンタリー作品『ダナ・ハラウェイ――生き延びるための物語り』(2016年)の上映にあったことをもう一度想起したい。同作はStayingと同時並行で制作され、同書の公刊とともに世に送り出された映像作品である。オートポイエーシス(autopoiesis)ではなく、シンポイエーシス(sympoiesis)。制作は単独では果たせない、なにものかと共に行う協働作業だ。だからわたしたちの土にまみれた触手は、細倉真弓、岩崎秀雄、そしてAKI INOMATAを協働制作者として手招きする。

 細倉は、身体を撮り続ける写真家である。hosokuramayumi.com | Mayumi Hosokura personal website

ヒトの身体とは限らない。別様に生成する可能性を秘めた身体のありかたについて細倉はこう語る。

 

人を撮ることがベースにあって、最終的にいろんな人が写っているけれど、写真の奥の方に存在するイデアについての写真を撮っていると思っています。最終的に抽象的な人物像ができるイメージで、モノを撮っているときもその延長という感覚があります。ここ数年、種が違う遺伝子や肉体の機械化を受け入れることでキメラになるサイボーグフェミニズムについて考えていて。植物とか、鉱物とかネオンライトも、人とか動物と完全に分断されているんじゃなくて、リニアにつながっていって、ひとつの大きい塊なんだと考えています。https://imaonline.jp/articles/interview/20180118mayumi-hosokura_atsushi-sasaki_1/#page-5

 

見える身体を越えた位相で、さまざまな身体どうしがひしめき合い、輪郭を変容させ生成していく、という身体の入れ食いを細倉は写真と共に幻視する。たとえば、「CYALIUM」展(展評:https://bijutsutecho.com/magazine/series/s8/319)の作品群のように、細倉は人間の身体と無機物の間にある種のつながりや接触を見つけていく。インターフェイスのような面と面の接触でなく、メルロ=ポンティに倣って「肉の折り込み」(infoldings of the flesh)とハラウェイが呼ぶ運動、すなわち有機体/無機物を相互包摂する身体のトポグラフィカルな嵌合を平面世界で展開する。そこには意味にも物質にも回収できない豊かな身体の戯れが広がっている。細倉は土界の民としてなにを思うのだろうか。

 岩崎は、生物学者であると同時に(バイオメディア)アートの制作者でもある。生命のプロセスを記号へも物質へも還元しないという岩崎の態度は、ハラウェイが「物質的‐記号論的身体」(material-semiotic bodies)と呼んできた生命のあり方と共振する。『<生命>とは何だろうか 表現する生物学、思考する芸術』(講談社、2013で詳述される合成生物学とバイオメディアアートにおける、「生命をつくる」という倫理的侵犯の誹りも受けかねない制作行為は、実は生きることそのものなのではないだろうか。ハラウェイにとって生とは、予め与えられたものとしてあるものではない。生きることは、記号にも物質にも還元できない「身体的実践」(bodily practice)そのものである。さらには、どの生も摂食や接触、感染、生殖を介して命を紡いでいくという意味において、どの生物も個体や細胞レベル、遺伝子レベルのユニット単独では維持できない。生きることはただ生を制作するだけではなく、共に制作する試みであろう。生命の協働制作を肌身で知り、「aPrayer: まだ見ぬ つくられしものたちの慰霊」によって人工生命の慰霊をさきどりする岩崎は、土界の民としてどのような応答をするのだろうか。Image

 INOMATAならば、まずハラウェイの伴侶種を文脈のひとつとした"I Wear the Dog's Hair, and the Dog Wears My Hair"がすぐに思い浮かぶ。イヌの体毛とヒトの体毛とを交換するこの作品は、「形見や契りといった絆の形象化を表すいっぽうで、体温調節という「はたらき」の交換が含まれている」。これは伴侶動物+ヒトという自他関係から離れ、互いの生を共に生成する伴侶種の共‐生成(becoming-with)の実践だろう。

INOMATAの代表作である「ヤドカリ連作」は、Stayingのなかでの例証として挙げられていても不思議ではない。特定の場所に生きつつ、成長に合わせ「やど」を鞍替えするヤドカリと、ニューヨークの建物、オランダの風車小屋、バンコクの寺院などの世界各地の建築物を模した「やど」を3Dプリンターでつくるアーティスト。アートと生きものの協働制作は、傍観者のままの人間を、生のプロセスへと誘いこむたくらみに満ちている。土界に集うINOMATAはどのように応答するだろうか。

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 こうしてわたしたちは土へと還る。「分厚い現在」と共にヒトでもポストヒューマンでもない存在へと気だるく生成する。ハラウェイに倣い、各々の身体のエッジを開き、菌糸と触手を緩慢に歓待する、さらなる土界の民の協働制作を心より乞う。