文芸共和国の会

考えるためのトポス

第7回「文芸共和国の会」開催のお知らせ

※8/18 シンポジウム登壇者の梗概を公開しました。

※8/18  印象に関する問題系を整理した「印象とはなにか」(逆巻)を公開しました。 

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※梗概、ハンドアウト等順次公開していきます。

※本会メーリングリストでは、運営方針や具体的な開催の構想その他について闊達な議論が行われています。現在のところ、海外、全国津々浦々より、学者/市民、先生/学生の区別なくさまざまな方々に参加いただいております。メーリングリスト参加をご希望の方は「vortexsitoneあっとまーくgmail.com(逆巻)」までお願いします。

 

 日差しの角度とぎらつきに戦慄を覚えずにはいられないこの酷暑を、いかがサヴァイヴしてらっしゃいますでしょうか。逆巻しとねです。

 これまで二本の発表と対話を範型として順次、広島・山口・福岡で開催してきた「文芸共和国の会」ですが、今回は趣向を変えて新しい挑戦をしてみたいと思います。

 各専門領域が備える壁を壊すことなく維持しつつ対話を試みる場をつくる、というコンセプトをより先鋭化させるために、壇上を異分野遭遇の場として設定してみます。

 総合格闘技のルールが確立され、バックグラウンドの異なる選手どうしが互いに不利を被らないようするための統一ルール締結交渉がなくなって久しい昨今ですが、確固たる共通言語の存在しない学術の世界においてはそのような緊張感ある場をつくることは今でも可能です。語彙や思考回路、背負っている歴史の異なる諸学がそれぞれガラパゴス的な進化を遂げた現状は、惜しみなく学知の交換を重ねた学問の共和国(文芸共和国)や万学に通じた博覧強記礼賛の伝統からすれば堕落のようにも映ります。しかし裏を返せば、理系/文系の分断もなくスムーズに学術的交流ができていた時代には、異分野との遭遇というスリルはあまりなかったのかもしれません。専門分化が進み洗練された専門知が林立している現代だからこそ、専門を違えるグラップラーが一堂に会する不穏で胡乱な異種格闘技戦を堪能できるのではないでしょうか。

 しかし本会の醍醐味は、歴戦の勇が相まみえる試合を観客がビールとつまみを持ち込んで観戦するというところにはありません。端的に言って、これはショウではありません(殺し合いでもありませんが)。会の参加者ひとりひとりがグラップラーなのです。自分は研究者ではない、専門性とは縁がないという方もまた、ストリートファイターでありましょう。リングは壇上にはない。場全体が「白いマットのジャングル」(『タイガーマスク』)なのです。

 ただ場をリングとして形成するのは、寄る辺なき自由な意見ではなく、専門性の負荷を帯びた議論であることを忘れてはならないでしょう。専門性に根差した議論をたたき台としていない対話は、空論に過ぎません。これは昨今の専門性軽視の風潮に対する批判でもあります。専門知をなくせば互換可能な情報しか残らない。対話の土台となるのは、専門家集団を背景にした専門知です。ここを理解して初めて、非専門家を交えた対話は始まります。

 リングの足場となるのは、学びの価値に対する無条件の信頼です。教える/学ぶという非対称性に基づいた学知の伝達というモデルには限界があります。教える立場にいる専門家から学ぶという構図は、えてして学ぶ側が与えられた知識を鵜呑みにし、批判の契機を見失うという帰結を生むことになります。しかしそのように役割を割り振ることなく、すべての人が学びの価値を共有すれば、社会生活におけるさまざまな局面において、環境に適応しつつも完全に適応できない部分を誰もが取り逃がすことなく批判することができるようになるでしょう。学びは学校の敷地を越えて社会で共有すべき価値です。このような理念が社会に浸透して初めて専門知は存在意義を確固たるものとし、また非専門家も対話に加わることができる。学びの価値を共有し、対話を通じて最小限の合意を形成し、各自の立場の違いやわからなさを認識し、そしてその差異から生まれる予期せぬつながりを模索する場を目指します。

 人間関係やしがらみ、空気といった、わたしたちに与えられ、わたしたちが依存しているさまざまな関係性は、生活を安定的に保つ上で必要なものです。しかし好循環ばかりが続くわけではない。時にはこのわかりきった関係性に楔を打ち込み、流れを変えることも必要になるでしょう。そのためにはわたしたちを等しく貫いている関係性にわからなさや違和感を感じなければならない。しかし違和感はいつも、自分とは別の存在との差異としてしか理解できません。換言すれば、違和感はひとりぼっちでは感じることができない。差異は、同じ関係性のなかに巻きこまれている(人間とは限らない)さまざまな存在を、ちょっとよくわからない、違う時間を生きている、自分とは異質の存在として認める出会いがもたらすのです。当たり前の関係性から身を引きはがし、異質なものに出会うところに学びの本質はあります。畢竟、なにかに出会わなければならない以上、まったくのひとりでは学ぶことはできないのです。

 本会は通常の意味での学会でも研究会でもない、学びの享楽と価値を信じる人たちのための学術的な出会いの場です。上述したような意味でなにかに出会えるかどうかは、参加者の学びに対する信頼にかかっていると思います。このたびの異分野格闘イベントがさらなる出会いを生みだすよう、ささやかながらリング設営のお手伝いをさせていただきます。

 というわけで、現代社会を蹂躙する「印象操作」だの「第一印象」だのにドロップキックを喰らわせるシンポジウムがこちらです。 

 

              印す - 象る - 消えてゆく

    ――英文学/メディア論/哲学から印象へ――

 

             シンポジスト: 石井 有希子 (英文学)

                     太田 純貴 (メディア論)

                     宮野 真生子 (日本哲学)

             

                  参加自由/入場無料 

       

       日時: 2017年 9月17日(日) 12:00~17:00

       会場: 九州工業大学サテライト福岡天神

          (〒810-0001 福岡市中央区天神1丁目7番11号イムズ11F)

 

※各登壇者の発表の方向性・問題設定を示す梗概を集めたものです。ご高覧ください。

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※ 印象に関する問題系を整理したものです。当日は冒頭、5~10分程度でまとめます。ハードコピーの配布はしません。(逆巻)

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※同日、18:00~天神周辺で懇親会を開催します。参加費は4000円程度。参加希望は、9月3日までに逆巻 (vortexsitone@gmail.com)にお知らせください。 領収書も用意しております。

第6回「文芸共和国の会」@広島レヴュー

 逆巻しとねです。

 思えば前回の広島での会は、カープリーグ優勝の翌日でしたね。人と車がごったがえす市内の狂騒ぶりが昨日のことのように思い起こされます。

 さて、今回は、広島市内の中心地に位置する広島経済大学立町キャンパスの一角をお借りして、吉村幸さんによる1940年代フォークナー作品論と萬屋博喜さんによる悲劇のパラドックスをめぐる発表、以上二件の発表と充実した対話を行いました。例によって今回も初参加の方が議論に加わってくださったのは大変心強い限りです。懇親会に至るまで、大変盛り上がりました。広島にはすでにさまざまな分野の研究者がおられることですし、今後ここから派生して市民やこれからの未来を担う若い人たちを巻き込んでいくさまざまな活動が生まれることを期待しています。

 以下、当日の発表内容と議論を、わたしの記憶と記録に基づいて再現してみます。

 吉村幸さんのご発表「国家と南部に揺らぐ作家の苦悩――1940年代におけるWilliam Faulknerの創作活動の軌跡」は、アメリカン・モダニズムの傑作群として名高い1920年代から30年代にかけてのフォークナー作品から離れ、これまであまり評価されてこなかった1940年代の作品群に描かれた、同時代の時空間と過ぎ去りしヨクナパトゥーファの時空間のあいだに生じる軋轢に文学的価値を認める試みでした。

 全4章構成のうち、第1章「南部の変遷とフォークナー」は近代化が進み変貌していく南部のありかたに主眼が置かれていました。まず「熊」においては、文明と荒野とを結ぶ媒介者としての鉄道の役割の変容を音風景の変化、特に音の「響き」に読みとる。次に「主のための柿板(こけらいた)」では、ニューディール政策の一環である公共事業WPAに従事して以降「作業単位」という計量化された時間に生きる労働者と太陽の動きに合わせた前近代的な時間に生きる労働者との対照を示した上で、後者が前者へと飲みこまれていくさまを読む。このように第1章は南部人の変容を、音響感覚や時間感覚の標準化という観点から論じるものでした。

 第2章「第二次世界大戦とフォークナー」では、愛国主義的との評価を甘受している短篇を例に、国家間の戦争という超国家的事象がアメリカ南部という一地域に与えるインパクトをめぐる考察が展開されました。「ふたりの兵士」論においては、地域に根差した新聞と地域間をつなぎ想像された国民を形成するラジオとのあいだに存する緊張関係と、後者に対するささやかな忌避感を読み取ることによって、愛国主義的な作品という通念に揺さぶりをかける。さらに「朽ち果てさせまじ」論では、人種の違いを超えて戦争に万人を動員しようとした戦時情報局(OWI)や戦争プロパガンダ映画を量産するハリウッドによる同時代アメリカの世論形成の傾向から逆行するかのような、古い南部黒人のステレオタイプ、及び第二次大戦を南北戦争と混同したり西部劇の騎兵隊を南軍と勘違いしたりする時代錯誤を焦点化する。以上のように、第2章は南部的地域性や旧南部の記憶が1940年代アメリカの愛国主義的な風潮と角逐する要素を抉り出し、両短篇に宛がわれる「愛国主義」という通説に疑問符をつけるものでした。

 第3章「アメリカ先住民とフォークナー」では、「求愛」(1948)をそれ以前に書かれた先住民ものと比較検討しながら、人種間融和というテーマと東西冷戦期という時代背景との関係を読み解くことに主眼が置かれていました。1930年代に描かれたMokketubbeに代表される先住民の不活発さと比べると、将来の酋長Ikkemotubbeは快活な人物として描かれています。ひとりの女性をめぐって白人Hogganbeckと激しく争ううちにIkkemotubbeとのあいだに育まれる友愛には、その結果だけを見れば、アメリカ南部の人種差別をナチスになぞらえていた冷戦期ソヴィエトのレトリックに対抗する人種融和のアレゴリーが見え隠れするともいえるかもしれません。しかしその競争の内実をみると、子どもの遊戯性が前景化されている。また「これは昔のことである」に始まり、「昔はこんな風だったのだ」で終わる回顧的な語りの姿勢からして、ここに同時代的な政治性を読むよりは、かつての旧南部へのノスタルジアを読み取るほうが正鵠を得ているでしょう。このように、旧南部への郷愁には、冷戦期の政治的プロパガンダから距離をとる効果が窺えるのです。

 第4章「黒人とフォークナー」は中短編集『行け、モーセ』並びに『墓地への侵入者』における黒人表象の揺らぎを問題にします。たとえば「黒衣の道化師」において妻を喪い悲しみに暮れる黒人Riderは白人たちに理解されません。ここには白人の黒人に対する「哀れみや理解の欠如」が顕著です。「作者の代弁者」と評されることの多い、どちらかといえば進歩的な思想の持ち主である、表題作「行け、モーセ」に登場する白人弁護士Gavinもまた、孫の救出を懇願する黒人女性が黒人霊歌を歌いだすに及び、黒人の理解に匙を投げたような態度をとります。『墓地への侵入者』にも人種間の障壁は厳然と存在しています。黒人の少年が白人につき従う姿や黒人の体臭の強調はその典型でしょう。加えて、リンチの予兆が描かれるに及んで、『八月の光』との類似は際立ちます。しかし同時に、『墓地への侵入者』ではリンチは現実化しない。フォークナーが後年ヒトラーになぞらえて言及したPercy Grimのような狂信的な人種差別主義者も存在しない。吉村さんはここに、国民的・世界的名声を獲得するに及び、もはや社会の脅威となる人物を描くことのできないフォークナーの姿を認めます。しかし同時に、狂信的なファシスト的扇動者が登場しないにもかかわらず『墓地への侵入者』で生じるモラル・パニックには、全体主義に対するリベラルの忌避よりは、民主主義に内在するポピュリズム昂進の予兆を読みこむほうが正鵠を得ているのかもしれません。

 

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 以上のような吉村さんの発表を受けて、参加者どうしの対話は活発に行われました。1920年代から30年代にかけての作品が研究の中心とされるなか、どちらかといえば道徳的で穏当な作品の目立つ1940年代フォークナーにどのような価値基準を与えるのか。実際の1940年代南部はどのようなものだったのか、フィクションとの差異はどの程度のものなのか。歴史的コンテクストのリサーチが一次史料によっておらず、テクストに適用するには妥当性を欠く、恣意的ではないか。過激な描写を控えるようになった背景には、フォークナーの自己検閲というよりは、編集者との関係があるのではないか(質問者のリサーチの経験を踏まえ、丁寧に説明していただきました)。国家や南部の概念規定が曖昧ではないか。当時の社会のコンテクストというのはどのようなものを前提しているのか、そのコンテクストに一貫性はあるのか、第二次大戦や冷戦という文脈を参照するのは適切か、より具体的なコンテクストを突き合わせて考える必要があるのではないか。愛国主義的作品というレッテルからは逃れているのかもしれないが、その一方で作品の性質上、道徳的で穏当、センチメンタルという従来の評価を超えるものが見当たらないのではないか。他方で、駄作との評価を受けている作品に別の評価基準を与えて再評価することには大きな意義がある、という意見もでました。その他、懇親会に至るまで濃密な議論が展開されました。

 吉村さんの発表は現在進行形のD論構想であり、説得力を欠く箇所は残っています。それでもフォークナーの1940年代作品群の研究はほぼ未踏の領域であり、モダニストとは異なる新しいフォークナー像を提示しようという意欲に満ちた発表であったと思います。今後、これを機に、より堅固な研究に結実することを願っています。

 それでは吉村さんの感想をご覧下さい。

 

 発表を終えて                         

                                    吉村 幸

 本報告ではアメリカ南部作家ウィリアム・フォークナーの1940年代に書かれた作品を、社会のコンテクストおよび作家の伝記等に照らして再評価することを試みた。まず始めにアメリカ南部のイメージを持ってもらうために、映画「風と共に去りぬ」(旧南部のイメージ)「ふたりの兵士」「墓地への侵入者」(新/近南部のイメージ)の予告編(YouTube)を見ていただいた後、フォークナー作品からの引用を適宜参照しつつ要点を押さえる形で報告を進めた。

 成果としては、これまでの研究・評価の流れを述べる必要があることや、国家/南部、愛国主義国家主義軍国主義等の概念規定をはっきりさせる必要があることなど、フロアの議論により今後の研究の発展の起爆剤となる手掛かりを発見することができた。発表後日にも当日の参加者の方々から暖かいコメントをメールでいただき、同じく研究の切り口を発見することができた。感謝申し上げたい。

 本報告第二章「第二次世界大戦とフォークナー」では、プロパガンダに与する作品に見られる作家フォークナーに加えられた圧力が議論の焦点となったように思う。特に本報告第二章第二部「朽ち果てさせまじ」の報告の最後の部分は、愛国主義的な作品であるという評価を打破できていない、というご指摘は大変貴重なものだった。「朽ち果てさせまじ」の愛国主義に反する姿勢は、作品に描かれる旧南部の記憶にすがりつく南部人の表象に表れている。作品末尾の「車輪」の表象は(外国と区別される)「アメリカ」という国家が一つの名称として表されるものではなく、それを支える国民一人一人によって構成されている、その一個人としての個性を忘れてはならないというフォークナーの想いが込められているのだ、という点で愛国心一辺倒ないわゆる愛国主義に反する姿勢を論じているつもりだったが、上記のご指摘にもある通り、そもそも国家(加えて南部)や愛国主義の概念規定が曖昧で、評価を打破できていないことは実感している。今後の研究課題とさせていただきたい。

 今後は「フォークナーが公に対して向けていた顔と内なる想いの分離」という1940年代に抱えていた作家の葛藤を念頭に、プロパガンダや編集者、雑誌の出版社等から加えられた圧力が作品をどのように歪めていったのか、それらの圧力にも関わらずフォークナーが作品で描きだしている内なる想い(国家を代表する作家という顔を裏切る描写等)を明らかにしていきたい。研究を進める上でフォークナーの1940年代の作品の面白さを証明し、前期や中期に偏りがちなフォークナー研究に新たな光を与えていきたい。

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 休憩を挟んで行われた萬屋博喜さんの発表、「悲劇の快」と物語的期待: ヒュームの洞察」は、イギリスの哲学者デイヴィッド・ヒュームの悲劇論をベースにして、悲劇に固有の快をめぐるパラドックスの問題点を整理し、解決に至っていない不十分な論点の克服を『リア王』の哲学的読解によって試みるものでした。

 「悲劇の快」のパラドックスとは、すなわち悲しい出来事や辛い場面が出てくるとはいえ、なぜ人はフィクションだとわかっている舞台上の出来事に心を動かされるのか、という古代以来の謎、通称デュボス問題と呼ばれるものです。萬屋さんの発表は、このパラドックスの美学的解決に取り組むものだった、とひとまずまとめることができるでしょう。

 ただし、「悲劇」と「快」というタームはそれぞれ慎重な検討を要します。したがって今回は、特定の悲劇が上演される時代やそれを記録する媒体、作家の評価といった要素は除外し、哲学的アプローチから生理学的アプローチまで周到な議論が必要な快の内実も問わないことにしました。このように、フィクションとしての悲劇に内在する快のメカニズムを見極めることに照準を絞ります。

 悲劇のパラドックスはさまざまに構成することが可能ですが、今回は、リヴィングストンが定式化したものを出発点にしました。わたしなりの理解で、ざっくりとまとめると次のようになります。

 

 1.悲劇を観て悲しい気持ちになることは予めわかっている。

 2.負の情動は避けたいと思うのがふつう。

 3.しかしながら観客は、悲劇を喜んだり、おもしろがったりする。

 

 以上のパラドックスは、観劇行為の動機づけをめぐる矛盾、つまり一般的に人間は負の情動を避けたいと考えるのが常なのに、負の情動をわざわざ享受しに悲劇を観に出かけ、あろうことかそこに感動を覚えたりする、という矛盾にかかわっています。このパラドックスを解消するには、どれかひとつの項目を否定する必要があります。萬屋さんは、三つのうち二番目の項目を標的に選びます。つまり、観劇行為の動機づけに矛盾があるのは、ここで「負の情動」とされているものが実は忌避されるものではないからではないか、という方向にパラドックスを解消することを目論むのです。

 デイヴィッド・ヒューム晩年の論稿 “Of Tragedy” (1757)の主題は、この悲劇のパラドックスの解消です。議論の背景には、アリストテレス以来のカタルシス説があります。このカタルシス説を展開する上で、デュボスは負の情動を以下のように位置づけています。

 

(1)人間にとって最大の悩みは「退屈」である。

(2)「退屈」から解き放ってくれるのであれば、それが苦しく悲しい種類の情動であったとしても、無味乾燥な気だるさよりはマシである。

(3)悲劇がもたらす苦しみや悲しみは、現実のできごとに対するものに比べれば、表面的なものにすぎないため、われわれの側で自由にコントロールできる。

 

 負の情動よりも退屈のほうが苦になる。したがって、退屈に苦しむぐらいならば負の情動に転化したほうがよい。それも悲劇であれば所詮はフィクションなのだから、負の情動もコントロールでき、イタキモチイイ快とすることができる、ということです。

 フォントネルはこのイタキモチイイ快を、鑑賞者の抱える苦が快に転じる「感情の混合」として説明しました。鑑賞者は、現実世界において感じている鬱屈した思いを、悲劇のような負の情動に満ちたフィクションの鑑賞を通じて吐き出すことができる。このような意味において、「負の情動を避けたいと思うのがふつう」という規定は崩れます。人はカタルシスを求めて自ら悲劇の鑑賞に赴く、というわけです。

 しかしヒュームは、リアルの世界で感じているストレスをフィクションの鑑賞によって発散する、という先行者カタルシス説の過誤を指摘します。それでは悲劇に内在する負の情動が観客にもたらす快について説明していることにならないからです。観客は予め負の情動を抱え、これをフィクション世界に投影しているとするならば、負の情動を抱えていない観客は悲劇を観にいかないということになる。悲劇に固有の快をフィクション内在的に説明するのではなく、ストレスに悩む観客が悲劇の観劇によってカタルシスを得るというふうに片づけてしまうと、解決をフィクションの外部にいる観客の性質に委ねることになってしまうのです。

 ヒュームは、悲劇固有の快を考えるためには、その悲劇の表現(depiction)に注目しなければならないと考えました。悲劇の「表現」は内容と形式とに分類できます。表現の「内容」とは、リア王の発狂、コーデリアの死、グロスター卿の自害といった悲劇中のエピソードの表象です。劇を構成するひとつひとつのエピソード、「点々」が悲劇にしか存在しえないのであれば、それは悲劇固有の快の解明に向かう手がかりとなるでしょう。しかしヒュームは照準を悲劇の「形式」のほうに絞ります。これはつまり、劇を構成する「点々」をつないで「線」にする、あるいはそれらを収容する「ハコ」について考える方向です。つまりは、ヒュームは、悲劇的要素の見せ方、レトリックの演出力に悲劇の快の秘密を探ろうとするのです。

 結論としてヒュームが悲劇の表現の形式に認めるのは、観衆が物語に寄せる期待が満たされると、認知の喜びによって悲しみや憐みが正の情動に変わる、という効果です。転換説(conversion theory)と呼ばれるこの解釈によれば、悲劇が喚起する負の情動は、物語的期待の成就によって正の情動へと転換することになります。したがって、悲劇のパラドックスを構成する二番目、「負の情動を避けたいと思うのがふつう」という命題は、悲劇に対する物語的期待が満たされる限りにおいて成り立たないことになります。すると観客の期待を満たすレトリカルな操作がもたらす快こそ悲劇固有の快である、ということになるでしょう。

 観客の負の情動が正の情動に転換する原因を観客側の心理ではなく悲劇の構造に求めたヒュームの転換説には一定の説得力が認められます。しかし、依然として転換説には不十分な点が残されています。ひとつには、負の情動がそっくりそのまま正の情動に転換するということがありえるのかどうか。萬屋さんは、悲劇に対する物語的期待が成就することによって負の情動は表面上消えるかもしれないが、劇場を出た後もこの忌まわしい感情は内面のどこかに潜伏しているとのではないか、という疑問を投げかけます。次に、ヒュームの転換説が提示する快は、悲劇に固有であると言えるかどうか。というのも、物語的期待を満たしてくれるフィクションを悲劇に限ることはできないからです。たとえばホラー映画も恐怖を感じつつしかし物語に満足することを通じて快を得ることができる。以上をまとめると、ヒュームの議論を徹底するには、(1)悲劇に固有のプロットは何を中心に回るのか? (2)悲劇の物語的期待を動機づけるものは何か? という問いに答えることが不可欠であることになります。

 ヒュームの議論を徹底すべく、萬屋さんはシェイクスピア四大悲劇のひとつ『リア王』を例に、悲劇の快をめぐる仮説を提示する方向に進みます。『リア王』の物語に対する文学的解釈は、たとえばリアを飾り立てる「虚飾」が剥奪されていき、最終的に「真実」が発見される願望の物語という解釈や定常性を喪失し混迷の果てに絶望に至るまでを描いた虚無の物語という解釈などさまざまあります。しかし萬屋さんはスタンリー・カヴェル『悲劇の構造』を手がかりに、ヒュームの議論を受け継ぎ『リア王』に内在するレトリカルな操作と物語的期待を剔抉する哲学的解釈を目指します。

 リアによるコーデリアに対する憤激をカヴェルは次のように説明しています。リアは無根拠な生を生きざるをえないことを知っている。だからリア王はおためごかしとはいえ生きる根拠になりうる「偽りの愛」が示されることを望んでいたのに、コーデリアは他の姉妹に追従することなく「真実の愛」を示した。リア王にとってコーデリアの真実の愛は、リアの生の無根拠を覆い隠すさまざまな虚飾を引きはがす「懐疑」として働き、その無根拠を開示するように感じられたがゆえに憤激し、コーデリアを追放するのです。

 『リア王』の登場人物はすべて≪根拠なき世界をどう生きるか≫という懐疑論の問題に直面し、世界の断念、愛の回避、認知の回避を強いられている。とりわけリアの悲劇とは、侍従や王としての権威、父としての立場を次々と失い、コーデリアの真実の愛という根拠となりうるものさえ、リアの無根拠の生を暴露する懐疑として感じられてしまう点にあるのです。無根拠な生を覆い隠す虚飾が次々と剥落し無根拠が暴かれる、という物語構造こそが『リア王』の悲劇性の根源にあると言えるでしょう。

 では、この『リア王』における人間の生の無根拠を開示する物語形式は、(1)悲劇に固有のプロットは何を中心に回るのか? (2)悲劇の物語的期待を動機づけるものは何か? というヒュームの悲劇論が残した課題にどのような回答をもたらすのか。萬屋さんは、以上のようなカヴェルの『リア王』解釈をヒュームの懐疑論に接続し、悲劇に固有の快の定義を試みます。

 

〔理性と感覚能力に関する〕懐疑論は、けっして根本的に癒されることのない病であり、われわれがそれをどれほど追い払おうとも、またときには完全に免れているように見えようとも、どの瞬間にもわれわれに戻ってこざるをえない病である。

(Hume, D. (1739), A Treatise of Human Nature, 1.4.2.57)

 

そもそも観客が生きる現実世界は、多かれ少なかれヒュームのいう懐疑の病に侵されている。であるならカヴェルの読解が剔抉した『リア王』の物語形式は、現実を覆い尽くす懐疑の病をフィクションにおいて現実以上に徹底的に追跡・理解するレトリカルな操作として理解することができるでしょう。つまり、ヒュームの悲劇論は

 

(1) 悲劇のプロットは、根拠なき世界での生き方の、常識ではありえないほど徹底した追跡・理解を中心に回っている

 

というかたちで深めることができる。懐疑の病のまわりを周る悲劇のプロットは、他の物語ジャンルとは異なり、観客が生きる現実世界と虚構世界とのあいだにレトリカルな渡しをつけ、後者において生の無根拠さを現実ではありえないほど掘り下げる。観客はフィクションを通じて、底なしの現実を覗きこむことになる。現実生活において、無根拠を徹底的に追究することは困難でしょう。しかし悲劇ならばそれができる。ホラーやミステリーにも当てはまってしまうヒュームの転換説を修正し、悲劇のプロットに固有な要素を懐疑の病の中心化として定義することができます。

 では、悲劇にしか向けられない観客の物語的期待があるとしたら、物語形式にはどのような動機づけが埋めこまれているのでしょうか。萬屋さんの仮説は

 

(2) 悲劇においては、「不条理なもの(悲しみ・憐れみの対象としての運命の原因)」が鑑賞者の物語的期待を動機づける機能を果たしている

 

というものでした。『リア王』のプロットが観客にもたらす悲しみ・憐みという情動にはふつう、その原因となるものがあると想定されます。萬屋さんはこの原因を「不条理なもの」と呼びます。『リア王』は、悲劇の原因となるものを明示しません。原因を特定できない。それは不条理と呼ぶしかない。『リア王』を観劇することによって感じる悲しみや憐みの原因に観客はたどり着けない。悲しみや憐みは解消されないし、別のポジティヴな感情に変わるわけでもない。ヒュームは、悲劇に対する物語的期待が満たされることによって負の情動が快へと転換する「転換説」を唱えました。ここでは物語的期待と負の情動は別々の原理として働いているようにわたしは思います。しかし萬屋さんの分析によれば、『リア王』のプロットに向けられる物語的期待は、観劇中に感じる悲しみや憐みという負の情動の原因に観客がたどり着くことはできない、この不条理の貫徹によって満たされる(とわたしは理解しています)。わたしが萬屋さんの発表を聞いた限りでは、現実に跋扈する懐疑の病をフィクションにおいて追求するプロットとそこから生まれる観衆の憐みや悲しみとが、不条理という一点において閉じた円環を構成するよう構造化された悲劇に、悲劇に固有の快、すなわち悲劇固有の物語的期待の成就は宿る、ということになるでしょうか。

 文献学的に誰かの思想を再現するのではなく、先人の思索の不完全な部分を引き継いでより精緻に思考するという方法、そして問いを扱える範囲に限定しその枠組みの中で一定の答えを出すという哲学的手続きの醍醐味が、萬屋さんのご発表には凝縮されていました。門外漢故に少々冗長な回顧になりました。誤解もあると思います。ご指摘いただければ幸いです。

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 対話は基本的な理解の確認から応用的な解釈まで多岐にわたりました。快のメカニズムについて考察する際に、自然科学による研究も参照されるのか。ニュー・クリティシズムにおける「劇的アイロニー」(「志村、後ろ!」)は悲劇の重要な構成要素と言えないか。悲劇とホラーの差異、不条理と不気味なものは現実と虚構とのあいだの接点を利用するという意味において近いのではないか、すると悲劇固有の物語構造の説明としてはこれでは不十分なのではないか。悲劇の悲劇性はノンフィクションの不幸とも共通するのか(編集やアングルなど形式的なレベルでの操作という点では共通する)。哲学的・美学的読解の特色は何なのか(悲劇というジャンルの特異性を情動的観点から問い直す)。シェイクスピアの悲劇には、異教的なもの、イギリスの外の文化の侵入が色濃く反映されていると考えられ、であるなら懐疑の病を構造化する悲劇の登場には、異教的なものが深くかかわっているのではないか(19世紀に至るまで『リア王』はハッピー・エンドに書き換えられていた)。ではキリスト教に悲劇は存在しないのか(イエスの悲劇があるという意見もありましたが、あれは復活と人類の救済を含みもつため、本発表における悲劇の規定には該当しないと思います)。『ゴドーを待ちながら』のような不条理劇との違いはなにか。悲劇に固有の「快」ではなく、「享楽」の問題として論じると、結末を知っているのにそれでもなお繰り返し悲劇を観劇するリピーターの経験を射程に入れることができるのではないか。その他、多数の意見が出ました。

 蛇足ではありますが、エリザベス朝演劇における舞台装置の貧弱さを加味して『リア王』を解釈する必要もあるのかもしれない、とわたしは思います。失明し死を望むグロースターをトム(エドガー)が崖上へと連れて行く有名なシーンがあります。この場面、舞台上は平面であり上り坂などない。エドガーは巧みにグロースターをだましグロースターはこれを信じる。協働作業の結果、グロースターは命を失わずに済む。これはある意味、depictionの形式が内容と一致する場面なのではないかと考えます。つまり、観客は崖の存在を想像力で補いつつも実は崖がないことを知っている、というこの場面の構図は、観客がプロットに期待を重ねると同時にこれが現実ではないことを知っている、という作品全体の形式と一致するのではないでしょうか。ヒュームに倣い、形式面における哲学的考察を展開した萬屋さんの発表は、内容との兼ね合いにおいてより豊かに展開する可能性を秘めていると感じました。

 以下、萬屋さんの感想をもって第6回レヴューを終えます。お読みいただき、ありがとうございました。

 

発表を終えて

                                   萬屋 博喜

  まずは、このように貴重な場で発表する機会を与えていただいたことに、心より感謝申し上げます。当日は、できるかぎり専門外の方にも伝わるように話すことを心がけたつもりですが、質疑応答もふくめた活発な反応をいただけたことに内心ホッとしております。

 さて、当日の発表では「悲劇の快のパラドクス」という美学上の伝統的問題について、18世紀の哲学者であるデイヴィッド・ヒュームの応答にどれほどの説得力があるのかを検討しました。当初はピーター・ウィアー監督『誓い(Gallipoli)』も扱う予定でしたが、できるだけ議論の道筋をシンプルにするため、当日の発表ではウィリアム・シェイクスピアリア王』に話の焦点を合わせました。そのことによって、問題の所在がより明確になったのではないかと考えております。

 発表の前半では、「悲劇の快のパラドクス」の背景と概要を紹介した上で、「悲劇に固有のプロットへの物語的期待が固有の快を生じさせる」というヒュームの議論(転換説)を検討しました。しかし、ヒュームは何が「悲劇に固有のプロット」であるのかを明確に論じていません。そこで発表の後半では、ヒューム的な転換説の可能性を追究するため、「懐疑論としての悲劇」という論点を強調しているスタンリー・カヴェルの悲劇論を参照しました。その結果として、少なくとも『リア王』については、(1)悲劇に固有のプロットが「生の無根拠さの理解・追跡」を中心とすること、そして(2)「不条理なもの」が悲劇のプロットへの物語的期待への動機づけとして機能することを明らかにしました。

 もちろん、以上は『リア王』に特化した議論です。そのため、以上の議論がその他の近代悲劇、あるいは古代悲劇や現代悲劇にも当てはまるのかどうかは、異論の余地があるでしょう。また、今回は演劇というメディアに議論を限定しましたが、映画や小説などの他のメディアについてはどうなのかという点も視野に入れる必要があると思います。

 実のところ、文学を主戦場とする方々の前で、(よりにもよって)シェイクスピアの話をしてよいものかどうか悩みました。しかし発表を終えてみれば、多くの方々から文学と哲学の垣根を越えた生産的な反応をいただき、本当に発表してよかったと心から思っております。みなさまにいただいたご批判やご意見をもとにして、今回の主題は継続的に研究を進めていきたいと考えております。今後ともよろしくお願い申し上げます。

ダナ・ハラウェイ『猿と女とサイボーグ』読書会開催のお知らせ

※追加 7/18

 高橋さんの資料追加です。「ニューロ&ファジーのちょっと後のハラウェイの議論を踏まえてのふりかえり、2つめ(生物学史研究掲載)はラディカル/フェミニズムの基本3文献の紹介です」

高橋:ハラウェイ読書会資料(追加分).pdf - Google ドライブ

 

※追加 7/18

 高橋さきのさんが読書会のために準備してくださった資料と補足資料、あわせて二件のリンクをここに貼っておきます。ダナ・ハラウェイ『猿と女とサイボーグ』が書かれた背景を理解する上で必須の、そして贅沢な資料だと思います。どうぞご活用ください。

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※以下は、逆巻の発表に関する資料です。各自事前にDL・印刷よろしくお願いします。5部ほどハードコピーを持参しますが、足りない場合、参加者どうしで融通してください。

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※下は告知用フライヤーです。自由にお使いください。

 

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 逆巻しとねです。

 第二回文芸共和国の会(下記リンク参照)にてはるばるお越しいただき発表していただいた高橋さきのさんの訳書『猿と女とサイボーグ』新装版刊行を記念して、とりわけ重要なテクストである第八章「サイボーグ宣言」と第九章「状況に置かれた知」を再読するイベントを企画しました。

republicofletters.hatenadiary.jp

 

(社会)構築主義の問いを無視したまま、生物学の知見をすべて文化的事象に還元する俗流ジェンダー一元論として理解されたり、科学技術の進展が女性を解放するという楽観的な技術決定論として言祝がれたりする傾向の強い「サイボーグ宣言」。

ことに我が国においては「サイボーグ宣言」の影でほとんど注目されることのないまま今日に至っている「状況に置かれた知」。

技術との共存が日常化し、ブルーノ・ラトゥールを嚆矢とするアクターネットワーク理論やマリリン・ストラザーンに代表される人類学の再考が翻訳紹介された今、数多ある無責任な俗説に振り回されることなく、ハラウェイのテクストと共に思考する素地はようやく整ったと言えるでしょう。

当日は、まずわたし逆巻がふたつの論文の基礎的な読解を示し、次に訳者である高橋が応答、及び論文の背景その他についての解題を行います。そののち、これらを手がかり・足がかり、あるいは反面教師として、この場に集う参加者全員で「状況に置かれた知」を共に実践します。

テクストの範疇を外れるような高度なことはしませんし、無意味な言語遊戯もしません。アカデミアの方だろうと、そうではない方だろうと、参加者全員で基礎的な理解を共有することを第一に考えています。

興味のある方はどなたであれ歓迎します。ふるってご参加ください(同書を事前に読んでおけば一層理解は深まると思います)。

以下、概要です。

 

日時: 2017. 7. 16 (日)  13:0018:00

会場: お茶の水女子大学 共通講義棟1号館 205号室 

最寄駅: 地下鉄; 丸ノ内線 茗荷谷駅; 有楽町線 護国寺駅

 

高橋 さきの (翻訳者; 科学技術論; 翻訳フォーラム共同主宰)

逆巻 しとね (独立研究者; アメリカ文学; 文芸共和国の会世話人

*基調発表・訳者解題後、全体討論

 

参加自由・無料  会場使用料は参加者全員で等分 

資料は開催前日までにこのエントリー上にアップします。

 各自事前にDL・印刷よろしくお願いします。

連絡先: 逆巻 vortexsitone@gmail.com

第6回「文芸共和国の会」@広島開催のお知らせ

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お久しぶりです。世話人の逆巻しとねです。

早いもので、本会も6回目の開催となります。広島ももう2回目ですね。これもひとえに開催を裏から支えてくださるみなさんと、毎回顔ぶれの異なる参加者のみなさんの、人文学に対する熱意の賜物であると思います。

学会や研究会のような場所に行ったことのないという人、心配ご無用です。難しい内容であってもほんの一端でもわかればいいし、その一端から世界への見方が変わるかもしれません。なんらかの研究者でも異なる専門分野を前にすれば、初学者であることに変わりはありません。専門家も時には専門の外に出て、自分の知見を根本から見直さないといけません。それまで思いもよらなかった発想は、内側から湧き上がってくるのではなく、いつも外からやってきます。

参加者の顔ぶれは毎回変わります。懇親会では毎回自己紹介しているようなありさまですから。ですので、まとまったひとつの団体であるというよりは、ばらばらのバックグラウンドをもつ人がひとつの場に集まっている、とお考え下さい。

とはいえ、偉い先生のお話を拝聴しにくる、という態度は巌に慎んでください。壇上にいようとフロアにいようと、参加者それぞれが考える主体です。年齢も性別も地位も関係なく、専門家の発表をとっかかりとして一緒に議論しながら考えるための場です。もちろん、発言しない自由はあります。強制はしません。しかしそれでも、自分も考える主体であるという点だけは忘れないでください。

予習をしてもいいし、しなくてもいい。会が終わったあと、関心を持ったところから学び始めてもいい。みなさんが今回の会に参加することで、なにかを考え、学び始めるきっかけになったとすれば、これ以上の僥倖はありません。

当日、お会いしましょう。

 

 

本会はそれぞれ専門を異にする研究者どうしが専門の垣根を維持したまま対話すると同時に、アカデミアの閉域を超えたところで市民どうし人文知を共有していくことを目指す場です。学者だけの場所である学会・研究会でも、学者が市民に対し講義をする市民講座でもない、学者と市民が共に同じフロアにおいて思考するアゴラ(広場)です。会員制ではありません。入退出自由、参加無料です。ふるってご参加ください。

(※本会の基本理念に関しては下のリンクを参照してください)

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※ポスター、梗概、ハンドアウト等順次公開していきます。

※本会メーリングリストでは、運営方針や具体的な開催の構想その他について闊達な議論が行われています。現在のところ、海外、全国津々浦々より、学者/市民、先生/学生の区別なくさまざまな方々に参加いただいております。メーリングリスト参加をご希望の方は「vortexsitoneあっとまーくgmail.com(逆巻)」までお願いします。

 

 

 

  第6回「文芸共和国の会」を以下の日程で開催します。

 

日時: 2017年 6月24日(土) 13:00~17:30

会場: 広島経済大学サテライト立町キャンパス132号室   

       (広島市中区立町2-25  IG石田学園ビル) 

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【JR広島駅から】路面電車広島電鉄)1、2、6番系統に乗車し「立町」駅下車、徒歩1分。所要時間は約15分。

 

※会終了後、18:00~広島市内において懇親会を開催します。振るって参加してください。参加費は4000円程度を見込んでいます。学生・院生の方はその半額ぐらいで参加できるよう配慮するつもりです。参加希望は、6月10日までに逆巻(vortexsitone@gmail.com)までお知らせください。 

 

(13:00~10分ほど趣旨説明)

 

① 13:10~15:10

 国家と南部に揺らぐ作家の苦悩

1940年代におけるウィリアム・フォークナーの創作活動の軌跡

               吉村 幸 (アメリカ文学

 1950年にノーベル文学賞を受賞したアメリカ人作家ウィリアム・フォークナー(William Faulkner)の1940年代は、傑作と称される作品群を産出した1920年代から1930年代と比較して多作の時期とは言えないが、激動の時代を迎えたアメリカ社会と相まって大変興味深い時代である。アメリカ南部ミシシッピ州に生まれた素人詩人として出発したフォークナーは、最初の長編小説『兵士の報酬』(Soldier’s Pay 1926)を書き上げ、その後にはフォークナーの「最初の傑作」(平石11)である『響きと怒り』(The Sound and the Fury 1929)を執筆した。さらにフォークナーは『死の床に横たわりて』(As I Lay Dying 1930)、『サンクチュアリ』(Sanctuary 1931)、『八月の光』(Light in August 1932)などの作品を書き上げ、ついに「二十世紀文学における最高傑作」(諏訪部332)とも評される『アブサロム! アブサロム!』(Absalom, Absalom! 1936)を執筆した。ところが傑作とされる上述したフォークナーの作品群は『サンクチュアリ』を除いていずれも芳しい売り上げを記録してはおらず、1940年代にはサンクチュアリを除くほぼすべての小説は絶版状態になっていた。作品の売り上げの伸び悩みに加え、友人や家族への援助、不動産への投資などが原因となり、1940年代初頭のフォークナーは経済的に困窮することになり、金銭の工面を自身の編集者らに懇願しているような有様であった。その頃のフォークナーは短編を執筆しては出版社に送りその場しのぎの金稼ぎを繰り返していたが、どうしても金に行き詰るとハリウッドに出向き映画のシナリオライターとして食いつないでいた(金澤 25)。ところが1946年のマルカム・カウリー(Malcom Cowley)による『ポータブル・フォークナー』(The Portable Faulkner)の出版を皮切りに、フォークナーの知名度は上がり作品に対する再評価の波が起こる。絶版となっていた小説が次々に再版されフォークナーは経済的にも安定し、1950年にはノーベル文学賞を受賞するまでにその名声を轟かすことになるのである。
 このようにフォークナーという作家をとりまく状況と評判は1940年代に一転している。これらフォークナーを取り巻く事象を踏まえて、本発表はアメリカ合衆国第二次世界大戦と東西冷戦という二つの戦争によって大きく揺れ動いた1940年代を研究の対象とし、当時のアメリカ社会のコンテクストに照らしてフォークナーの作品群を読み直すことで、比較的関心の薄れるフォークナーの後期の作品群から新たな解釈を生み出すことを目的とする。とりわけ『アブサロム! アブサロム!』を書いた後のフォークナーはハリウッドにおいてワーナー・ブラザーズ(Warner Brothers)と結んだ映画脚本執筆の契約に苦しめられ、最も多作であった初期や中期のころと比べて作品の数は少なく、後期の作品群は初期や中期ほどの出来栄えであるとは言えないだろう。一方でフォークナーの後期の作品群あるいは作家が経済的困窮から脱出するために産出された作品からは、ノーベル文学賞を受賞し国家を代表する作家となる過程において悶え、苦しみ、それでも自分が真に書きたいものを最後まで捨てきれずに葛藤するフォークナーの姿が読み取れる。その葛藤する様は1940年代、ひいてはフォークナーの後期の作品群に多様な解釈の余地を生み出していると思われるのである。そのようなフォークナーの人間味あふれる1940年代の創作活動の軌跡を辿ることで、激動の時代と世界情勢に揺れる国家とその中の南部作家、そして普遍的な人間の姿を描きだす小説の面白さを炙り出していく。

                   【引用文献】
金澤哲.『フォークナーの「寓話」― 無名兵士の遺したもの』あぽろん社.2007年.
諏訪部浩一.『ウィリアム・フォークナーの詩学1930-1936』松柏社.2008年.
平石貴樹.『メランコリック・デザイン―フォークナー初期作品の構想』南雲堂.1993年.

 

② 15:30~17:30

 「悲劇の快」と物語的期待:ヒュームの洞察

       萬屋 博喜 (哲学/デイヴィッド・ヒューム
researchmap.jp

 

  本報告の目的は、美学における伝統的問題の一つである「悲劇の快のパラドクス」を取り上げ、それに対するデイヴィッド・ヒューム(1711-1776)の解決策がどこまでの説得力をもつのかを検討することにある。
 絵空事にすぎないとわかっているにもかかわらず、なぜわれわれは悲劇を観るために喜んで劇場へと足を運ぶのだろうか。また、現実に起きたとすれば苦痛で不快に感じる出来事でも、それがフィクション世界の出来事であれば娯楽として受け入れられることがあるのはなぜなのか。これが、美学において悲劇の快のパラドクス(デュボス問題)と呼ばれてきた伝統的問題である。そこで主に問題とされてきたのは、悲劇を描いたフィクションのキャラクターや出来事に対して鑑賞者が抱く「快」の情動は、いったいどのような種類の心的状態であり、どのようにして生じるのか、ということである。
 以上の悲劇の快のパラドクスについては、さまざまな定式化が可能である。その一例を挙げれば、次のようになるだろう。
 (1)『リア王』の鑑賞者は、上演中に悲しい思いをすることがわかっている。
 (2)ある人が何らかの対象について悲しい思いをすることがわかっているとき、その人はその対象を避けようとするはずである。
 (3)『リア王』の鑑賞者は、喜んで劇場へと足を運ぶ。
これらの(1)~(3)はそれぞれ直観的にもっとものように思われるが、すべてが同時に真であると考えると矛盾が生じる。そのため、このパラドクスを解決するためには、(1)~(3)のうち少なくともどれか一つを否定する必要があることになる。このパラドクスに対して、ヒュームは「悲劇について」というエッセイで次の解決策を提示している――悲しい思いをするのがわかっているとしても、悲劇への物語的期待が満たされれば、われわれは悲劇の快を受け取ることができる。こうしたヒュームのアイデアには、どのていどの説得力があると言えるのだろうか。
 本報告の流れは、以下のようになる。まず、悲劇の快のパラドクスを定式化した上で、それに対するヒュームの議論を概観する。次に、ヒュームの議論に対して向けられる反論を検討したのち、ヒュームの議論の可能性と限界を明らかにする。最後に、時間の許すかぎり、『リア王』や『誓い』といった作品を例にとりながら、ヒュームの議論が具体的な作品に対してどのていどの説得力をもつのかを検証する。

                  

                  【参考文献】

・D. ヒューム『道徳・政治・文学論集』田中敏弘訳(名古屋大学出版会、2011)
  ⇒「悲劇について」の翻訳
・R. ステッカー『分析美学入門』森功次訳(勁草書房、2013)
  ⇒Chapter8
・西村清和(編)『分析美学基本論文集』(勁草書房、2015)
  ⇒第4章(K. ウォルトン「フィクションを怖がる」)
戸田山和久『恐怖の哲学』(NHK出版、2015)
  ⇒第7章
・西村清和『フィクションの美学』(勁草書房、1993)
  ⇒第4章
 

第5回@徳山高専レヴュー

 文芸共和国の会世話人を務めております、逆巻しとねです。

 2/25(土)第5回「文芸共和国の会」@徳山工業高専の報告をします。

 わたしのうっかりで国公立大学の二次試験と日程が被ってしまい、来場できなくなったという方が多くおられました。申し訳ありませんでした。しかし心臓を破ったのちに下半身の後ろ身頃をまんべんなく筋肉痛が襲うという噂の、あの地獄坂を登攀し終えた健脚自慢の精鋭10数名が、西日本各地から集いました。一般の方の参加があったのも心強い限りです。今回も例によって初参加の方々を迎え、会の議論、懇親会、そして二次会に至るまで盛会でした。この場を借りて御礼申し上げます。

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 肝心の発表ですが、通常運転の二本立てでした。まずラファエル前派や唯美主義、アーツ・アンド・クラフツ運動に深く掉さす画家エドワード・バーン=ジョーンズの連作《天地創造の日々》及び《ペルセウス・サイクル》の男性表象をめぐる久保美枝さんの発表、それから現在Jホラーと呼ばれている日本映画の一ジャンルの成り立ちを通覧、とりわけ中心的な役割を果たした小中千昭の「小中理論」とJホラー嚆矢の一作『邪眼霊』の絵解きをする瀧波崇さんの発表が行われました。以下、わたしの記憶の及ぶ限りでレヴューしてみます。

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 久保さんのバーン=ジョーンズ論は、神学者を志してオックスフォードに入学、ウィリアム・モリスと出会い、ジョン・ラスキンの影響を受けイタリア芸術に目覚め、芸術家に転身、といった画家の来歴を簡単に紹介するところから始まりました。ラスキンの後ろ盾もあって徐々に頭角を現したバーン=ジョーンズはスキャンダルに見舞われます。すなわち、1870年にオールド・ウォーターカラー協会に出品した《ピュリスとデモポーン》のなかで外性器を露出している男性デモポーンの裸体が物議を醸し、同協会を脱退することになったのです。

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(By エドワード・バーン=ジョーンズ - pQHm7BaZKDY-VQ at Google Cultural Institute, zoom level maximum, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=29660166

 

 失意の渦中にあった画家は、ミドルトン・チェイニーの教会窓のステンドグラスのデザインにとりかかります(久保さんのご指摘では、スタッフォードシャー、タムワースのChurch of Saint Editha(東窓のデザイン)とのことです)。これが球体を抱えた天使によって天地創造の7日間を表現した1870-76年連作《天地創造の日々》でした。一連のプロジェクトで作品として結実したのは、モリス商会が実作に携わったステンドグラスだけではありませんでした。このデザインをもとにしたスケッチと水彩画は、イギリス絵画の保守本流を成すロイヤル・アカデミー展の向こうを張る意図で企画された第一回グローヴナー・ギャラリー展に出品されます。そして、地球のごとき球体に創世記のイメージを投影するという画家の構想は、ヘンリー・ジェイムズに絶賛されることになります。

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(《天地創造の日々――五日目》By carulmare - http://www.flickr.com/photos/8545333@N07/4121982170/, CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=30366862

 

 しかし久保さんが注目するのは、ヘンリー・ジェイムズが天使の性別に執心する姿です。

 all his young women conform to this languishing type with a strictness which savours of monotony. I call them young women, but even this is talking a grosser prose than is proper in speaking of creatures so mysteriously poetic. Perhaps they are young men; they look indeed like beautiful, rather sickly boys. Or rather, they are sublimely sexless, and ready to assume whatever charm of manhood or maidenhood the imagination desires. The manhood, indeed, the protesting critic denies; that these pictures are the reverse of manly is his principal complaint.  (http://vickysands.com/01/14/336.htm)

乙女だとも少年だともいえる天使の姿に、ジェイムズは当惑しているようです。さしずめこれが男性性の魅力か、乙女の魅力かは、鑑賞者の想像力の如何に委ねられており、「無性」とでも言っておくのが無難であろう、といった口ぶりです。しかし特筆すべきは、この連作を批判するものは、この天使が男らしさの対極を行くところに非難の矛先を向けるだろう、と評者がつけ加えている点でしょう。「無性」は性差に由来する女性的な要素とは関連せず、もっぱら既存の男性的な表象を否定する要素に重ねられている。しかしジェイムズは、「無性」を画家の構想力の偉大さを示す表現のひとつとして評価します。上の引用のあと、天使が柔和さと倦怠の色を帯びつつも、同時にそこには蠱惑的な純粋さが宿っている、と「無性」の天使を画布上に顕現させたバーン=ジョーンズの構想力を称賛するのです。あくまでもわたしの個人的な思いつきに過ぎませんが、もしかしたら「無性」を男女の差異ではなく、あくまでも女性性を排除した男性性内部の抗争として記述するジェイムズの論法をみると、この「無性」が革新性や新しい美のイデオロギーとして必要とされたのは、アカデミーという父権的なものに対抗する男性作家の集団を可視化するためだったのかもしれません。

 無性の天使は、ロイヤル・アカデミーの基準となっていたミケランジェロのような筋骨隆々の男性像を描けない、バーン=ジョーンズの素描力の未熟さを裏書きするのか、あるいはジェイムズが称賛するように彼一流の想像力の閃きを証言するのか。いずれにしても同時期には、ウォルター・ペイターを理論的支柱とする唯美主義運動が高まりを見せていました。写実とは異なる、中空に浮遊するがごとき美の観念そのものを捉える唯美主義の趨勢に、バーン=ジョーンズの画風はうまく適合したということも言えるでしょう。(※とりわけ、《天地創造の日々》の額入り写真複製6点をバーン=ジョーンズから受け取り、感激したと伝えられるフランス象徴派のギュスターヴ・モローとの影響関係は特筆しておくべきでしょうか。ともかくも連作《天地創造の日々》には、ロイヤル・アカデミーに対抗する形で開かれたグローヴナー・ギャラリー展の劈頭を飾るにはうってつけの奇抜さが認められていた、という事実は銘記しておくべきです)。このような背景に鑑み、主流派の男らしさを否定し人間の性別を超越する唯美的な表現として、バーン=ジョーンズの天使を評価することもできるでしょう。

 しかし男らしさの控除は天使の表象だけにはとどまりません。実際にスキャンダルとなった前掲《ピュリスとデモポーン》をはじめとして、バーン=ジョーズはほぼ一貫して男性像を男らしからぬ存在として、ジェイムズの評を借りれば “queer”な存在として描き続けた作家でした。1875年から90年代にかけて制作されながら完成をみることは叶わなかった《ペルセウス・サイクル》と呼ばれる作品群もまた男らしさの表象に関するさまざまな謎を秘めていました。

 ギリシア由来のペルセウス神話と言えば、ゴルゴン三姉妹を打ち倒し、アンドロメダを救うべく竜退治に挑み、名を馳せた英雄として知られています。実際、ペルセウス神話をモチーフにした絵画は、ペルセウスの力強さや雄々しさを強調する筆致、またそのために適した情景を選択するのが常でした。しかしながら、バーン=ジョーンズの描くペルセウス神話はどこか趣が異なります。連作のひとつめ《ペルセウスの召還》ではぺルセウスに剣と鏡を賦与する女神アテーナのほうがのちの英雄よりも遥かに雄々しく描かれています。自信なさげにアテーナを見上げるペルセウスの体躯は裸体のまま、それも痩身で、英雄とは言い難いのは一目して明らかでしょう。さらには、《ピュリスとデモポーン》と同様、男性のヌードを正面観で描いている点も見逃せません。

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(《The Call of Perseus, 1877》 By エドワード・バーン=ジョーンズ - [1], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=39895663

 

 重ねて、《ペルセウスアンドロメダ》のペルセウスにも同様の傾向は見られます。

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(《Perseus and Andromeda》 By Edward BURNE-JONES (1833 - 1898) (Britain)Born in Birmingham, England. Dead in London.Details of artist on Google Art Project - NgEDBYoddsZlBw at Google Cultural Institute maximum zoom level, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=23600995

 

 また《運命の岩》のペルセウスは鎧を身にまとっているものの、あまり猛々しい感じはなく、どちらかといえば、弱々しい裸体の延長線上にあるように見受けられます(久保さんはアカデミー派のアンドロメダ表象と比較し、バーン=ジョーンズのアンドロメダには男性の鑑賞者を悦ばせる性的な要素が欠けているという指摘もされていました)。

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(《The Rock of Doom (The Perseus Cycle 6) (c. 1885-1888)》 By エドワード・バーン=ジョーンズ - [1], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7541656

 

 さらに《果たされた運命》に至っても、ペルセウスが竜を力づくで打倒するという物語性は希薄で、どちらかと言えば竜に巻きつかれている受動的な姿が印象に残ります。

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(《The Doom Fulfilled》 By エドワード・バーン=ジョーンズ - Staatsgalerie Stuttgart, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=30168283

 

 このように、バーン・ジョーンズの描くペルセウス神話は、英雄が美女を救うという王女救出譚、あるいは騎士道物語の性格は弱く、ギリシア神話や聖書への言及も仄めかされてはいてもそれほど明確なヴィジョンとして顕在化しているわけでもないようです。久保さんの解釈にもこの異教の物語に範をとった連作における性的表現の抑制をキリスト教世界の精神性の表現と結びつけたり、《不吉な首》の水鏡の8角形にキリストの復活を読みとったりと、試行錯誤のあとが強くにじんでいました。異教的なものとキリスト教的なものの交錯の解釈にこだわりつつも、物語的形式性の希薄さとデザイン性の高さ、そして絵画芸術における男性性の唯美主義的否定の確認をもって、発表は終わりました。久保さんのお話では、バーン=ジョーンズ研究そのものがまだ美術史においてそれほど盛んになされているわけではなく、事実上手探りで解釈をしなければならない状態にあるとのことで、その意味では自らけものみちをつくりこの踏破を試みる発表であったかと思います。

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(《The Baleful Head》 By エドワード・バーン=ジョーンズ - Web Gallery of Art:   Image  Info about artwork, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15452102

 

 討議は、《ペルセウス・サイクル》の解釈を中心に行われました。《ペルセウスの召還》には、しゃがみこむペルセウスとアテーナから鏡と剣をもらうペルセウスというふたつの場面が同居しているという久保さんによる補足。《果たされた運命》の竜は、ペルセウスにまとわりつき、その動きを制約・抑制する形象となっているのではないか、という指摘。《運命の岩》のペルセウスは兜を脱いでアンドロメダを認めたという久保さんの解釈に対し、アンドロメダの向こうに視線が向いているのでペルセウスは竜を認めて兜を被るところなのではないか、というディテールに踏み込んだ鋭い指摘。騎士道にもさまざまなモードがあり、これは騎士道に則っているという即断は避けたほうがよいのではないか、という意見。バーン=ジョーンズの絵画はギリシア的でもなければキリスト教的でもない、単に美的なのではないか、という解釈。デッサン力に欠けるという意見。《不吉な首》の水鏡の8角形に寓意的な含意はなく、そのほうがペルセウスアンドロメダが腕を置きやすいという人間工学的観点からそうなっただけではないか、あるいは、8角形にしたほうが奥行きを表現しやすいからではないか、という議論。またバーン=ジョーンズの絵画はどれも反遠近法的であり、平面的である、という意見(このあたりはフランス印象派が巻き起こしたスキャンダルを思わせるところがあります)。また、美術史における男らしさの規範はどこにあったのかという質問。その他、さまざまな意見が飛び交いました。

 わたしとしましては、バーン=ジョーンズと同じモチーフを扱っているアカデミー派の絵画との比較、そして美術の先端と目されているフランスやドイツの作品を論じるヘンリー・ジェイムズやジョン・ラスキンの論との比較を精緻にすれば、もう少しバーン・ジョーンズ作品の特徴や受容のされ方が明確になるのではないかと思いました。特に同時代の言説のなかにバーン・ジョーンズを位置づけたいという欲望と、その作品に久保さん独自の解釈を施したいという欲望が混在している点は気になりました。受容史と作品解釈の区別をはっきりさせて論じないと、両者が交錯するおもしろさが半減してしまうのではないかと危惧するゆえんです。しかし、絵画の専門家のいない状況で、議論は活発になされました。思ってもみない斬新な解釈がフロアより聞けたのは、久保さんのバーン=ジョーンズ作品に真っ向からぶつかる真摯な「正面観」に各自が刺激を受けたからであろうと思います。

 

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 休憩を挟んで、福井からお越しの瀧波崇さんに、Jホラーと小中理論の再検討に関する発表をしていただきました。

 まず瀧波さんの発表は、「Jホラー」と呼ばれる映画ジャンルが誕生した背景の解説から出発しました。「Jホラー」が登場した1990年代末まで日本映画は低迷期にありました。劇場公開の主流を占めるのはハリウッドの大作ばかりで、日本映画は公開本数や興行成績においてもプレゼンスは低かった。ホラー映画に限っても、50~60年代までに隆盛を誇った「怪談映画」以降、日本での劇場上映の主流を成すのは、『13日の金曜日』を代表とするスプラッターや『ジョーズ』を典型とするショッカーといった輸入映画でした。この状況を一変させる起爆剤となったのが後に「Jホラー」と総称されることになるホラー映画群でした。とりわけ『リング』 (1998)や『呪怨』(東宝Vシネマ版 2000)は、後にハリウッドでリメイクされ、大きな旋風を巻き起こしました。同時に日本の映画コンテンツの海外進出、日本の映画人による海外での高評価といった現象も定着していきます。日本映画が市場規模を一気に拡大した背景に「Jホラー」の胎動と普及があった、という事実を無視することは難しいでしょう。

 とはいえ、90年代後半以降映画界を席巻するホラー映画群の総称「Jホラー」は、比較的最近になって確立した用語です。怪談映画特有のおどろおどろしい赤や緑の照明その他による幽霊の演出とは一線を画す、情感描写を中心とした国産ホラー映画が「ジャパニーズ・ホラー」と呼ばれたのは1996年のことでした。『リング』封切り後の1999年には「和製ホラー」という用語も登場します。しかし「Jホラー」という用語が登場するには、2004年から2010年まで行われた東宝の企画「Jホラーシアター」を待たなければなりません。落合正幸、鶴田法男、清水崇黒沢清高橋洋中田秀夫といった日本のホラー映画界を牽引してきた監督陣によるこの一連の企画が「Jホラー」という総称を確固たるものにした、と言えるでしょう。

 以上のようなJホラーと日本映画の来歴を、黒沢清の生まれる1955年から『リング0バースデイ』の2000年までのスパンで主要動向を整理した自作の年表を参照しながら解説したのち、瀧波さんはさまざまなホラー映画を十把一絡げにしたJホラーという総称の根源にいるひとりのアクターに注目します。脚本家として著名でありながら、音響・ 特殊効果・撮影に至るまでホラー映画の制作に携わってきた小中千昭の存在です。とりわけ、ホラー映画関係者のあいだでひとつの参照枠として流通していた通称「小中理論」は、Jホラー関係者に無視できない影響力を及ぼしました(※今回、瀧波さんの発表内容には、小中千昭さんへのインタヴュー取材の成果が盛り込まれていていました。小中さんのご協力に感謝申し上げます)。

 小中理論とは、怪談映画やショッカー、スプラッターを越えたより根源的な恐怖を模索するための理論仮説です。これはホラー映画の本質について甲論乙駁を交わした高橋洋小中千昭の往復書簡に由来し、のちに小中千昭『ホラー映画の魅力―― ファンダメンタル・ホラー宣言』(2003 岩波)として世に流通することになりました(『恐怖の作法:ホラー映画の技術』(2014 河出書房新社)は増補改訂版)。

 小中理論の企図は、日本の伝統的な怪談映画からの離脱と洋画ホラーの批判的継承にありました。ホラー原理主義の賭け金は、幽霊・亡霊を焦点とする恐怖とリアリティの追求に尽きます。実話報告の形式、怪奇現象の不条理さ、「呪いのビデオを見ると死ぬ」といった同じ出来事を複数の人が共有する情報の統一、生の要素を剥奪された幽霊、といったさまざまなテーゼがここには含まれますが、瀧波さんが注目するのはダン・カーティス『家』に特徴的な「怖さとは段取りである」というテーゼ、そして低予算ゆえにトビー・フーパー『悪魔の生贄』の思わぬ副産物となったドキュメンタリー効果です。この「段取り」と「フェイク・ドキュメンタリー」の交点に位置し、両者を分析する上で有効だと考えられるのが映画理論における語りの手法です。

 事前に参考文献として挙げられていたジャック・オーモン著・武田潔訳「視点」(岩本憲児・武田潔斎藤綾子編『「新」 映画理論集成2』フィルムアート社)や清塚邦彦『フィクションの哲学』(勁草書房)を導きの糸として、瀧波さんは『カリガリ博士』や『欲望のあいまいな対象』にも言及しつつ、ドキュメンタリーの次元(現実)とフィクションの次元(虚構)とを混線させるフェイク・ドキュメンタリーの手法は、映画理論における語り手とその背後に想定される作者の混同という効果をもたらす、という指摘をします。カメラの視点に作為のないことを強調するフェイク・ドキュメンタリーの手法は、物語のなかに含まれる語りとそれを安定的に構成する作者との関係を破綻させます。その結果として、観客はホラー映画をたんなるフィクションとして突き放してみることが難しくなる。作者の意図が作中の語り手の判断に還元されるとき、ホラー映画はその外部に想定されるつくり手の視点への志向を失い、映画内に限定された臨場感を獲得することになります。原理的には、フェイク・ドキュメンタリーとして制作されたホラー映画が、語り手と作者が渾然一体となったドキュメンタリーとして鑑賞されるとき、ファンダメンタル・ホラーは完成する、と言えるでしょうか。小中千昭自身、『食人族』や『ゆきゆきて神軍』といったフェイク・ ドキュメンタリーの影響を受けている、と瀧波さんは指摘します。いずれにしても、以上のような「段取り」と「フェイク・ドキュメンタリー」という小中理論の鍵概念が具体化したのが、小中が脚本・音響・美術を担当し、ドキュメンタリー作品の監督としても活躍していた石井てるよしを監督に迎えた、Jホラーの嚆矢と目されるビデオ作品『邪眼霊』(1988)でした。以下は、『邪眼霊』 の映像を確認しながら進められました。

 『邪眼霊』は、当時実在した女性アイドルを売りこむプロジェクトを取材したドキュメンタリー映像の再編集版ビデオテープという設定をとっています。本来はテレビ番組として制作されたものの事情によって放送されなかったビデオ素材を、作中、レポーターとディレクターが再編集していきます。一度通り過ぎたシーンに幽霊が映りこんでいることを映画内の視点人物がテープを巻き戻して指摘し、視聴者と共に視認する。こうして語りの現場のなかに視聴者は埋没していくことになります。再編集の現場に視聴者も居合わせ、 幽霊が映りこんでいる映像を作中人物と一緒にクロース・アップで目撃することになるからです。

 小中千昭の目論見は、フェイク・ドキュメンタリーの手法を使って、ビデオをつくった作者とビデオの中にいる語り手の区別を不分明にし、作者の意図の存在を宙づりにする演出に求められるでしょう。視聴者は、主体的に映像の客観性を信じることになる。つまり、視聴者はなんらかの物語を見ているという感覚を失い、自らが視聴しているビデオのメディア的特性に従って、作品内の視点人物に倣ってこれを巻き戻し、幽霊が映りこんでいるシーンを確認するに及ぶ。恐怖を演出する小中をはじめとする制作陣の「怖がらせてやろう」という外在的な意図はカッコに入れられ、視聴者が見ているビデオと視聴者の内面に行き場のない恐怖は圧縮されることになります。

 瀧波さんの発表は、煎じ詰めればJホラー実作の強力な参照枠となった小中理論と、映画の原理に理論的に肉迫する映画記号論の接点を探るものであった、と結論づけることができるでしょうか。対話の時間に指摘があったように、実際に小中千昭は映画記号論で学位を取得してもいます。こうしてみれば、Jホラー論の射程は、同時代の文化的事象にとどまらず、「映画とはなにか」という原理的な問いにまで届くことがわかるでしょう。ファンダメンタル・ホラーは、恐怖とリアリティの追求であると同時に、映画の根源をえぐる試みでもあるわけです。Jホラーが日本映画復活の狼煙となり、ハリウッドにまでその影響が波及した理由は、ここに明らかでしょう。

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 瀧波さんの発表後の対話の時間は、ホラー愛好家とホラー嫌いが一堂に会してホラーを語るという大変ユニークなものになりました。Jホラーを論じる際に語りの理論を援用するのは適当なのか、つまり、Jホラーは視聴者に恐怖感を催させるための「段取り」を用意するものであり、物語ることに関心はないのではないか。この段取りを浮き彫りにするためにも、認識できないもの、得体のしれないもの、理解できないもの、“it follows”をめぐる感情の考察が必須となるのではないか。『邪眼霊』にディレクターとして登場する竹中直人のような著名な俳優は、登場人物が役者であることを強く意識させるために、フェイク・ ドキュメンタリーの徹底を邪魔するのではないか。ファンダメンタル・ホラーを論じるのであれば、映画記号論における語りの理論だけではなく、ホラーという感情そのものについても論じる必要があるのではないか。小中理論とJホラーの実作は互いにもつれあいながら並走していて、理論と呼ぶには厳密性を欠くのではないか(これに関しては、わたしは小中理論を実践に対する理論という構図に即して捉えるのではなく、ひとつの「ライトモチーフ」として考えたほうがいい、と今は思います。特に『呪怨』のようなアンチテーゼを考慮する場合は、ライトモチーフへの応答、あるいはその変奏という視点が欠かせないでしょう)。怪談映画における赤・緑の照明と『リング』における自然光。『女優霊』と『リング』の幽霊表象の比較。『稀人』に代表されるメタ映画的構造。幽霊とフレーム外、不鮮明さ。小説を原作としたJホラーの原作との比較。ハリウッドの翻案とJホラーの比較。ラヴクラフトのコズミック・ホラーとファンダメンタル・ホラーの近さ。フェイク・ドキュメンタリーとフロイト「不気味なもの」。とどめに、なぜ人はホラー映画などというおぞましいものをわざわざ見るのか、という根本的な疑問も呈されました。ホラーを忌避する心情がホラー映画の構成的外部として働いている、つまりは両目を覆う指の隙間からおぞましいものとわかっているものを厭いつつもつい覗いてしまう、恐怖と好奇心の入り混じった背反的な感情こそが、ホラー映画をつくる/見るという共犯性の淵源にあるのかもしれません。

 

 以上、わたし逆巻の記憶に即した発表と討議の回顧でした。以下の発表者おふたりの感想をもってレヴューを締めくくります。  (以上、文責: 逆巻しとね)

 

                第5回文芸共和国の会を終えて

                                 文責: 久保 美枝

 2月25日、徳山工業高等専門学校で行われた第5回文藝共和国の会での発表を無事終えることができました。第5回目の日程が決まった後、会場の準備・手配のみならず懇親会をも含めて会が終了するまで、高橋愛先生には始終お世話になりました。そして、会の進行役を務めてくださった逆巻しとね氏、また発表を聞いてくだいましたみなさまにお礼申し上げます。質疑の時間では、様々な質問や意見をいただくことができました。その場で書き留めた私のメモをもとに、当日いただいた意見を大よそではありますが紹介し、それらを踏まえて今思うことについて簡単ですが報告させていただきます。
 「バーン=ジョーンズの両性具有な絵画-ペルセウス・シリーズを中心に-」と題して、19世紀イギリスで活躍した芸術家、エドワード・バーン=ジョーンズ(1833-1898) の描いたペルセウス像の男性性について考察しました。ヴィクトリア朝期の絵画の描かれた男性像について、Joseph A. Kestnerは著書『Masculinities in Victorian Painting』のなかで、ギリシャ神話の英雄、勇敢な騎士・兵士、家父長制、男性のヌードといった特定のモチーフによって、様々な男性像が多層的に描かれていることを論じ、なかでもバーン=ジョーンズの描く男性像は、これらをモチーフにしつつ、しかし意表をつくような男性像であることを指摘しています。本発表は、Kestnerの論じた、ヴィクトリア朝中期から後期にかけての絵画における男性性について念頭に置いてはいたものの、その引用が抜け落ちていたことに加えて、絵画表現にみる「男らしさ」というものを明瞭にしていなかったため、ヴィクトリア朝期のどの時期の男性性について論じているのか、男らしさというものをどのように定義するのか明確にすべきではないかというご指摘を受けました。またバーン=ジョーンズの描いたペルセウス像を騎士道、そしてキリスト教的世界観と重ね合わせながら読み解く試みは、先行研究においてもなされていることですが、これについて、シドニー・ペインターが論じたように騎士道といってもさまざまな概念があることから、バーン=ジョーンズ絵画にみる騎士道というものがどのようなものであるか具体的に示す必要があるのではという指摘もありました。《ペルセウス・シリーズ》ではキリスト教絵画のモチーフが見受けられる構図を取っていますが、そのことに関して、宗教的側面を打ち出すことよりもデザインを重視したがためのモチーフ選びではないだろうかという意見もいくつかありました。本発表ではペルセウス像の男性性に着目して考察を行いましたが、アンドロメダ像におけるナルシシストな側面を指摘される意見もありました。最後に、バーン=ジョーンズの描くペルセウス像が非常に受け身的な姿で描かれていることについて、そこにはキリスト教における受動的なあり方、世界観の顕れではないだろうかと、そしてこれを土台として絵画空間がデザインされているのではないかと、みなさまのご意見を頂いて今なおこのように考えています。様々なご意見をありがとうございました。今後の研究につなげていければと思います。
 

 

                                 文責: 瀧波 崇

 まずは、当日ご参加いただきましたみなさまに、感謝申し上げます。拙い発表でしたが、最後までおつきあいくださり、誠にありがとうございました。さまざまな専門分野の方々から、貴重なご意見を多数賜り、おかげさまで、たいへん刺激的で、充実した時間を過ごすことができました。

 いわゆるJホラーは、一般的には日本の伝統的な怪談と結びつけられて語られることが多いようです。確かに、怪談もJホラーも、幽霊を恐怖の対象としていますし、Jホラーの代表的なキャラクターである貞子と伽倻子の衣装も、一見、白装束のようです。実際はワンピースですが。しかしJホラーの作品群に多大な影響力をもつ、小中千昭氏の制作理論から考察することで、伝統的な怪談をモチーフとした映画からの脱却も含めた、新しいホラー映画、小中氏の言葉を借りれば、本当の意味でのホラー映画の実験であった、ということが見えてきます。昨今では、Jホラーが低迷しているとも言われますが、その実験は単にジャンル映画の追求にとどまらず、映画の映像の本質に迫るものであり、海外で高く評価されたことが決して偶然ではなかったこと、またそれが、小中氏と問題意識を共有する脚本家、監督たちの努力によるものであったことをお伝えできれば、という思いで発表に臨みました。

 現在は研究とはまったく関係のない職に就いており、大学院の先輩で、同じ日に発表された久保美枝さんから発表のお話をいただくまで、ほとんど勉強をしていませんでした。事前に、さまざまな専門分野の方だけでなく一般の方も参加し、発表と同じくらいの時間、議論をするとうかがっていましたので、どんな質問をされるのか、そもそも議論に堪えうるだけの発表ができるのか、不安でなりませんでした。しかしレヴューにもありますように、ホラー好きの方からホラー嫌いの方まで、さまざまな視点からのご意見、ご指導を頂戴することができました。これらのご意見、ご指導は、私にとって、勉強不足を痛感させられるものであったと同時に、励みともなりました。これからも、みなさまのあたたかいご意見とご指導のもと、研究を続けていこうと思います。

 遠方からの参加で、逆巻しとねさん、高橋愛さん、久保さんにはたいへんお世話になりました。ありがとうございました。これに懲りず、またお声がけいただければ幸いです。また今回の発表で、突然の申し出にもかかわらず、快く取材に応じていただきました小中千昭氏に、心よりお礼申し上げます。

第五回「文芸共和国の会」開催のご案内

※公費申請用プログラムを公開しました(1/27)

※告知用ポスターを公開しました(1/30)

 

 

本会はそれぞれ専門を異にする研究者どうしが専門の垣根を維持したまま対話すると同時に、アカデミアの閉域を超えたところで市民どうし人文知を共有していくことを目指す場です。学者だけの場所である学会・研究会でも、学者が市民に対し講義をする市民講座でもない、学者と市民が共に同じフロアにおいて思考するアゴラ(広場)です。会員制ではありません。出入り自由です。すべて無料です。ふるってご参加ください(※本会の基本理念に関しては下のリンクを参照してください)

 

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※ポスター、梗概、ハンドアウト等順次公開していきます。

※本会メーリングリストでは、運営方針や具体的な開催の構想その他について闊達な議論が行われています。現在のところ、海外、全国津々浦々より、学者/市民、先生/学生の区別なくさまざまな方々に参加いただいております。メーリングリスト参加をご希望の方は「vortexsitoneあっとまーくgmail.com(逆巻)」までお願いします。

 

※以下の告知用ポスターは自由にお使いください。 

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※公費申請の方は以下のプログラムをご利用ください。

www.dropbox.com

 

 第五回「文芸共和国の会」を以下の日程で開催いたします。

 

 日時: 2017年 2月25日(土) 13:00~17:30

 会場: 徳山工業高等専門学校 教室・管理棟二階・大会議室

[交通アクセス] http://www.tokuyama.ac.jp/campus/areamap.html
[キャンパスマップ] http://www.tokuyama.ac.jp/facilities/index.html

※JR徳山駅からはバスを利用される場合は「高専」行き(終点)か「久米温泉口」行き(高専・大学下で下車)をご利用ください(「久米温泉口」方面だと軽い山登りをすることになりますので、「高専」行きのほうがオススメです)。駐車場の利用もできますので、車で来られても大丈夫です。

※会場使用料は6000円です。当日、参加者で折半します。

 

 

(13:00~10分ほど趣旨説明)

 

① 13:10~15:10

 久保 美枝 (ラファエル前派絵画)

「バーン=ジョーンズの両性具有な絵画

         ーーペルセウス・シリーズを中心にーー」

 

 1877年5月、ヴィクトリア朝ロンドンでは、絵画の出展、展示方法に関して周到に練られた、ロイヤル・アカデミー展ともパリ落選展とも異なる、グローヴナー・ギャラリー展が開かれる。ロイヤル・アカデミー展で落選した作品は出品しないという唯一の条件のもと、招待作家たちは、作品の展示に必要なスペースをあらかじめ伝えるよう求められていた(1)。様々な趣向のこらされた展示空間を、ヴィクトリア朝文化研究者であるJ.B.ブレンは「まるで婦人の私室のようであった」と例える(2)。女性的なイメージを抱かせるほどの展示空間のありようは、ある種のきわどさを含みつつ、グローヴナー・ギャラリー展は唯美主義と連動して展開をしていく。この展覧会について数回の批評を寄せた作家ヘンリー・ジェイムズは、エドワード・バーン=ジョーンズを「グローヴナー・ギャラリーの獅子」と称したが、その手腕は幾分「クィアネス(queerness)」なところによるのだという(3)。ジェイムズは、バーン=ジョーンズの描く男性とも女性ともおぼつかない人物像について語るが、その人物像の醸し出す、男らしさ/女らしさの境界を紐とくような雰囲気は、ジェイムズのみならず、美術、宗教、医学と様々な分野の書き手たちによって、不穏なものとして評される。その不穏さとは、ヴィクトリア朝の理想・規範とする男性像/女性像を揺るがしてしまうようなバーン=ジョーンズの人物像の描き方に大いに拠る。いわば挑戦的ともいえる人物像の描き方であるが、J.B.ブレンは、19世紀イギリスの男らしさへの挑戦は、両性具有というものにあり、バーン=ジョーンズの絵画は両性具有な人物たちに満ち溢れたものであるという(4)。ヴィクトリア朝絵画において、ギリシャ神話を題材とした作品では、力強く英雄的な男性像が好まれて描かれるなか、バーン=ジョーンズはペルセウス神話を主題とした作品、連作絵画《ペルセウス・シリーズ》では、甲冑を纏った力強い女神を描き上げている。騎士を思わせる女神の姿には、男性化してしまった女性像をみてとることができるが、同時に、騎士という姿における男性的なものを揺るがせてしまう危うさも秘めているだろう。本作品は未完に終わっているが、その要因には、メデューサの登場する場面において、メデューサ像そのものが構想途中のままであることが深く結びついているだろう。《ペルセウス・シリーズ》での人物描写に着目をし、男らしさ/女らしさの境界を曖昧にさせるような人物像たちによって繰り広げられる、バーン=ジョーンズによる神話世界を読み解いていきたい。

 

(1) Christopher Newall, The Grosvenor Gallery Exhibitions: Change and Continuity in the Victorian Art Word, (Cambridge University Press, Cambridge, 1995), pp.13-14.
(2) J.B. Bullen, The Pre-Raphaelite Body: Fear and Desire in Painting, Poetry, and Criticism, (Oxford University Press, Oxford, 2005), p.151.
(3) Henry James, “The Pictorial Season in London 1877”, The Painter’s Eye: Notes and Essays on the Pictorial Arts, in John L. Sweeney (ed.), (The University of Wisconsin Press, Wisconsin, 1989), p.144.
(4) J.B. Bullen, The Pre-Raphaelite Body, p.186.

 

参考文献: 加藤明子他著.『もっと知りたいバーン=ジョーンズ 生涯と作品』. アート・ビギナーズ・コレクション. 東京美術, 2012.

予習用参考サイトリンク➡ The Victorian Web (www,victorianweb.org)

 

② 15:30~17:30

 瀧波 崇 (映画理論)

「Jホラーのリアリティ

           ーーなぜその映像は怖いのか?ーー」

 

 1960年頃に映画の観客動員数、邦画の公開本数ともにピークを迎える。しかしその後、またたく間に減少し、1980年代から90年代にかけては、観客動員数はおよそ10分の1、公開本数は半分になった。ところが1990年末頃から観客動員数、公開本数ともに増加に転じる。この時期に大ヒットしたのが、いわゆるJホラーの作品群である。『リング』(1998)は興行収入10億円を突破し、その後制作された『リング2』(1999)と『リング0 バースデー』(2000)は、ともに『リング』の興行収入を超えた。また『リング』や『呪怨』などはハリウッドでリメイクされ、全米でも大ヒットを記録している。さらにオリジナル版で監督をつとめた中田秀夫(1961〜)、清水崇(1972〜)は、リメイクの際にハリウッドで監督デビューを果している。このように、Jホラーが日本映画に果した役割は大きい。では、Jホラーとはどういうものであったのか。
 Jホラーとは、いうまでもなく Japanese Horror のことであり、リメイクされた『The Ring』(2002)『The JUON/呪怨』(2004)が全米で大ヒットしたのち、日本でも使われるようになった言葉である。おもに1990年代以降の日本のホラー映画を指す。
 『リング』と『呪怨』はJホラーの代表作であるが、それらの脚本家、監督たちは口々に「小中理論」の影響力の大きさを語っている。小中理論とは、脚本家である小中千昭(1961〜)が本当に怖いホラー映画を制作するために編み出した理論のことである。Jホラーの作品群に対する、この小中理論の影響力は大きい。そこで本論では、小中理論から、Jホラーがどういうものであったかを読み解いていく。いいかえれば、小中理論の実践として、Jホラーの作品群をとらえるというわけである。
 小中理論は「ホラー映画とは何か」という問いから始まり、ホラー映画とそうでないものを慎重に区別し、さらに本当に怖い映画に必要なものと必要でないものを説明する。小中理論とは、本当に怖い映画に必要なものを探求する試みであったわけである。またその試みは『リング』の脚本家である高橋洋(1959〜)や『リング0 バースデー』の監督である鶴田法男(1960〜)らとの関わりの中で洗練され、実践されていく。小中理論から読み解くことで、Jホラーが、本当に怖い映画を模索するムーヴメントであったことが見えてくる。
 小中理論では、とりわけ幽霊の表現に注力しており、そのために「心霊写真」の手法と、またそれを成立させるための徹底したリアリティを追求している。心霊写真とは、実際にあった風景を写している写真に、写るはずのないものが写っていたり、写らねばならないものが写っていなかったりするものをいう。また心霊写真の手法とは、映画の中にそうした映像を紛れ込ませることをいう。だがその手法を成立させるためには、映像を「実際にあった風景」のように見せねばならない。そこで小中が取り入れたのは、ドキュメンタリーの手法である。ドキュメンタリーの映像は、「実際にあった風景」として私たち観客に提示される。小中の脚本家としてのデビュー作である『邪願霊』(1988)では、ドキュメンタリーのような映像のなかに、写るはずのないものを紛れ込ませることで、物語を超えて、観客を恐怖させる映像をつくり出している。
 

 参考文献・映像: 

 ①ジャック・オーモン著・武田潔訳「視点」(岩本憲児・武田潔斎藤綾子編『「新」映画理論集成2』フィルムアート社)

 

 ②小中千昭脚本/石井てるよし監督『邪願霊』(1988)

 ③小中千昭脚本/鶴田法男監督『ほんとにあった怖い話』(1991)
 ④小中千昭脚本/鶴田法男監督『ほんとにあった怖い話 第二夜』(1991)
 ⑤高橋洋脚本/中田秀夫監督『女優霊』(1996)
 ⑥小川智子・鶴田法男脚本/鶴田法男監督『亡霊学級』(1996)
 ⑦高橋洋脚本/中田秀夫監督『リング』(1998)

 ⑧小中千昭脚本/清水崇監督『稀人』(2004)

 

    

 

同日18:30~、JR徳山駅周辺にて懇親会を開催する予定です。会費は4千円程度の予定です。どなたでも参加できます。

出席希望は「vortexsitoneあっとまーくgmail.com」、逆巻までemailで通知願います。
〆切は2月11日(土)。
準備の都合上、事前の出席通知をお願いいたします。
領収書も用意しております。

 

 第五回徳山大会をもって、文芸共和国の会は一周年を迎えることとなりました。細く長くをモットーに、地道に積み上げてきました。会員はおらず、会費はなく、参加資格はなく、もっぱらメーリングリストを使ったやりとりだけで運営しているせいで、毎回参加者の顔ぶれが変わるし、当日までどれぐらいの参加者が来るのかまったく分からない、というスリルとサスペンスを味わいながら、ここまでやってきました。文化インフラに乏しい地方にさまざまな分野の方が集まって、噛み合っているのかどうかわからない対話を重ねていくこと自体に意義はあると信じて、一裏方としては今年も変わらず地道にやっていきたいと考えております。

 未体験なので不安だという方、人見知りの方、そんな専門外の難しいことはよくわからないという方。大丈夫です。おそらく条件は毎回わたしと同じです。社交辞令は不要です。基本的に名前も身分も聞くことはありません。年功序列もありません。学術的関心があれば十分楽しめます。全然知らない領域のことを理解するきっかけさえつかめばそれで十分です。

 ファシリテーターを務めるわたしも毎回、ゼロから専門外のことを学んでいますし、もともと全然社交的な人間ではありません。ただわからないことや知らなかったことについて考えることが好きなだけです。ハードルは低いのでご安心ください。思いがけない出会いを楽しみにしています。

                               (文責: 逆巻しとね)

 

第四回文芸共和国の会@北九州市立大学レビュー

 

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 世話人を務めております、逆巻しとねです。

 11/19(土)に北九州市立大学北方キャンパス本館にて開催された第四回文芸共和国の会について報告します。

 会の前日の深夜、近くの高層マンションの避雷針にどかーんどかーんと落雷がひっきりなしに吸い込まれていく音を聞きながら、翌日の天気を心配しましたが、みなさまの徳性の高さのおかげか、曇天模様ながらも交通事情に影響することもなく無事開催することができました。会員もおらず、当日迎えてのお楽しみの精神で開催してきましたが、今回は顔ぶれも一新、初めての方々とたくさんお話する機会となったのはとてもよかったと思います。今回予定が合わず来場できなかったみなさんも今回のレヴューを読んで考えるきっかけにしていただき、また次回以降都合が合えばお越しいただければと思います。

 さて、今回は最初に宗教哲学者・佐藤啓介さんにご登壇していただきました。佐藤さんは宗教哲学の再構築という大きなテーマのもとに旺盛な学術活動を展開されています。全貌に関しては、佐藤さんのHPをご覧ください。 

www.h7.dion.ne.jp

最近では藤田尚志・宮野真生子共編「愛・性・家族」三部作の第一巻『愛』に寄稿しておられます。

参考リンク: ナカニシヤ出版「愛・性・結婚の哲学」を読みましょう (1) | 江口某の不如意研究室

 

 佐藤さんのご発表「死者倫理は可能なのか?」は、あるニュースに登場した「死者の尊厳を傷つける」という表現に対する小さなひっかかりをとっかかりとして、大陸系哲学における「絶対的な他者」という遠い死者ではなく、分析系の議論、特に「死後の害の哲学」における身近な死者から始まる死者倫理についてミニマルな基礎的考察を展開していただきました。以下は、わたしなりのまとめです。

 教団宗教の弱体化・宗教的言説の空洞化が進む昨今、宗教概念そのものも歴史的構築物として扱う傾向にある宗教哲学にとっては、このまま宗教から遠ざかり空洞化の進行に加担するのをよしとはせず、むしろ従来宗教が担ってきた非日常的・非合理的経験の解釈を通じて宗教的なものを積極的に再構築していくことが喫緊の課題となる。そのうえで、宗教的言説の根源にあるべき「死者への敬意」という主題から出発するのはごく自然ななりゆきであるように思います。

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 今回佐藤さんは、死者倫理の問題系のなかでも、死者そのものに生者と同じような敬意を払う可能性と条件を問うことに話題を限定されました。さらに死は死者にとって害なのか、害であるならそれはなぜなのかを問う「死の害の哲学」、とりわけ死者が蒙る消極的な害についての考察に焦点を絞ります。そしてこの潮流の展開は、

1)死によるポテンシャルのはく奪を考える方向 

2)死者は生前/死後関係なく生の全体の主体として、あるいは(実存はしていないが)生者と同じように存在のレベルで害を受ける対象=オブジェクトとなっていると考える方向 

3)死の害の時間性を考える方向

 

の3つに整理できます。

 そのうえで以上の3)の問題系は

A)死の瞬間、生前に害が及ぶとする事後遡及的な時間性

B)死そのものが決定的な断絶とはならない、生と死が地続きにあるような時間性

 

のふたつに分類できる。このうちB)を扱うのが事前に指定された参考資料、福間聡「「死者に鞭打つ」ことは可能か」が死者倫理の問題系全体における立ち位置である、と解説いただきました。このようにしてみると、福間論文を「図」とした「地」の広がりがよくイメージできますね。

ci.nii.ac.jp

 福間論文において焦点となるのが、死者の象徴的実在、すなわち言葉として語られたりイメージとして伝播したりするような死者のありかたです。この点、死者は生者と同じように言葉やイメージのなかで生き続けている。このように死者が悪罵や歪曲の被害を生者と同じように被るという場面を想定すれば、死者は生き生きと語られ続ける限りにおいて敬意を払うべき隣人となる。

 しかし佐藤さんは、ここに死者についての語りの正しさをつけ加えることを忘れません。語られる死者が敬意を払う対象となりうるだけでは死者倫理としては不十分である。つまり死者についての語りにはある種のメタ倫理的制約が必要である。死者が生者にとって都合のよい敬意のもとに語られてはならない。語られる死者が死者本人のものと推定される人格から切り離されてはならないとする、「過去への忠実さの要請」(ポール・リクール)が問われなければならない。とすれば、分析系哲学が提示するように生き生きとしたものとして死者を語るとき、死者のすべては絶対に語りえないし死者の思いは代弁できないという大陸系哲学におけるメタ倫理的次元に向き合わなければならないのではないか、という問いかけをもって佐藤さんの発表は締めくくられました。生き生きした死者の近さと完全に語りつくすことのできない死者の遠さを同時に想起すること、とでも言い換えられるでしょうか。

 対話の時間においては、佐藤さんのミニマルな問いを敷衍する方向に進みました。「忘れられる権利」との関係、象徴的実在とゾンビの関係、脳死と語り、死者の美化/美学化の問題、死者の名を騙ること、死者を記録するメディア、非西洋世界の口承文化における死者の語り、死体損壊罪・死体遺棄罪の位置づけ、語られることのない死者というサバルタンの問題系、ヘイドン・ホワイトとカルロ・ギンズブルグによる歴史の物語論論争との関係、及び歴史修正主義の問題、死後の世界のイメージなどなど、一時間ほど活発な議論が続きました。

 身近な問題から出発し、学術的に高度なところまで議論を展開することに成功したと思います。また佐藤さんのプレゼンの仕方、ハンドアウトの構成、言葉の使い方にも大いに蒙を啓かれたことをここに付言しておきます。とても生き生きとした議論であり、ハンドアウトを見なくとも内容が理解できる明晰さがありました。わたし自身、学会発表等でこのスタイルを真似してみたいと思いました。

 福間論文の予習に始まり、そしてこの討議を経て、さらに佐藤さん自身の感想の末尾にリンクが貼られている新聞連載記事「死者をどう記憶するか」を読むことを通じ、さらに死者倫理について理解を深めることになれば幸いです。わたしとしては、佐藤さんのインタヴュー記事オバマ氏演説:宗教哲学からどう読むか?「死者の声」を代弁してはならない」(1~3 『クリスチャン・トゥデイ』2016年6月29日)も併せてお読みいただくことをお勧めします。

www.christiantoday.co.jp 

 

 

以下、佐藤さんに寄稿いただいた感想です。

【発表をおえて】

 まず、当日、発表を聴いていただき、またご質問などをいただいた皆様に、感謝申し上げます。
 概要にもあるとおり、当日は、「なぜ死者を敬わなければいけないのか」という主題をめぐって、あえて現代思想のスタンダードである他者論的な倫理から出発せず、「死の害の哲学」を一つの突破口として、「死後も害を被りうる」ような死者の存在のあり方を考えることで、死者の名誉を毀損してはいけない理由を考察しました。生きている人にも死んでいる人にも、等しく「言説やイメージにおいて存在する社会的・象徴的人格」という次元があり、その人格(平たくいえば、その人の社会的評価・社会的名誉)は、仮に死者であってもなお言説のなかで生きつづけている限り、「生き生きとして」おり、「傷つくことができる」。それが、死者を敬う一つの根拠たりうるのではないか、という発表をおこないました。
 異なる分野に関心をもつ人々が多く集まり、かつ、北九州という、私自身もなじみのない土地で発表することもあり、正直なところ発表前はどのような反応をいただけるのか予想もつきませんでした。しかし、蓋を開けてみれば、所定の発表時間のあいだ、質問が途切れることがなく、特に、意図的に主題を絞りに絞った発表だっただけに、そこから零れ落ちた視角からの鋭いコメントを多数いただき、感謝のかぎりです。とりわけ、文学系の方が比較的多かったためか、ある種のフィクショナルな想像力とその限界という論点にかかわるコメントが多く寄せられたのが印象的でした。これだけ議論が盛り上がっただけに、もう少しそちらの方面の議論にも展開させればよかったかと、いささか反省しております。
 なお、そのあえて展開しなかった、発表者の他者論的な死者論については、以前新聞に寄稿したことがあり、発表の補足として、ご参照いただければ幸いです(以下のwebページの、後半画像3枚で全文を読むことができます)。

                                     佐藤啓

「死者をどう記憶するか(上)(中)(下)」(中日新聞2016年6月28日付、7月5日付、7月12日付、各朝刊より) 

 http://nie.jp/month/contest_newspaper/2016/detail/1-3.html

 

 佐藤さんの発表に引き続き、岡崎佑香さんに 御登壇願いました。岡崎さんはヘーゲル哲学をフェミニズムから読み解く研究をされていて、スラヴォイ・ジジェク+マルクス・ガブリエルの共著『神話・狂気・哄笑』の共訳者でもあります。

togetter.com

 岡崎さんには「ヘーゲルアンティゴネー論とフェミニズム」と題してご発表いただきました。告知段階の梗概では『アンティゴネー』における姉妹関係が焦点となっておりましたが、当日は兄妹関係を扱うご発表でした。おそらく『精神現象学』のような弁証法的紆余曲折が梗概と発表とのあいだにあったのだろう、と推察します。以下、わたしなりのまとめです。

 ジュディス・バトラーアンティゴネーの主張』は、ヘーゲルが『精神現象学』において展開するアンティゴネー読解のラディカルさを理解しているように思われるのに、なぜかそれを単純化してしまっている。具体的に言うと、バトラーはヘーゲルの読解を、兄クレオーンの拠って立つ「人間の掟」と妹アンティゴネーの拠って立つ「神々の掟」という図式に収斂させてしまう。バトラーの読みは、オイディプスの呪いが父と兄の差異をかき乱し欲望を乱反射させる「乱交的服従」をその言語の働きに認める方向に進む、つまりエディプス・コンプレックス的な欲望の構図の脱構築へと向かう。しかしそこまでの過程でヘーゲルが提示している問題、とりわけ「兄妹関係」と「犯罪」概念のラディカルさをバトラーは無視してしまう。バトラーが自らのアンティゴネー読解を展開するうえで、以上の要素を軽視している点に岡崎さんは着目しました。これらをヘーゲル思想の未だ語られざるフェミニズム読解のポテンシャルとして掬い上げる。そうすると同時に、「乱交的服従」に至るバトラーの洞察の犠牲となっているフェミニスト的盲目を新たなポテンシャルとして浮き彫りにする。いわば、ヘーゲルとバトラーの読みを弁証法的にぶつけ、ヘーゲル精神現象学』におけるフェミニズム的読解の萌芽が見える地点、すなわち両者の止揚を目指す、というのが岡崎さんの発表の趣旨であった、とわたしは理解しています。     

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さて大枠を見たうえで、細部に入ります。岡崎さんの発表において焦点となったのは、女性の男性に対する関係においてヘーゲルが特権視する「兄妹関係」と、ヘーゲル法哲学』を援用したアンティゴネーの「犯罪」行為解釈でした。

 補助線を引いておきます。ヘーゲルは、『精神現象学』精神章において女性が男性と結ぶ関係(神々の掟に定められた男女関係)をみっつに分類しています。

1)夫と妻の関係

2)母と息子の関係

3)兄妹関係

 

 このうち1)と2)の男女間関係は欲望や情欲といった「自然」に囚われている。自然の克服がひとつの主要なテーマとなっているヘーゲル哲学において、自然に囚われている限り自由な主体とは言えない。家族内関係においては女性は自由ではない、とヘーゲルは考える(もともと西洋では女性は男性よりも自然の力に曝されやすいと見られてきました)。しかし例外となるのが3)の兄妹関係です。ヘーゲルアンティゴネーが死した兄ポリュネイケスと結ぶ関係は「同じ血縁であるが、この血縁は両者において安定し、均衡を得ている。それゆえ両者は情欲を持ちあう(begehren)こともないし、一方が他方に自立存在(Fürsichsein)を与えたのでもなく、一方が他方からそれを受け取ったのでもなく、互いに自由な個人性(Individualität)である」と論じています。兄と妹の間の「承認は純粋であり、自然的関係を混じえていない」のです。

 神々の掟に定められた兄妹関係は、自然を克服している。それゆえに家族内関係とは異なり、兄と相対する場合、女性は欲望の一般化を免れている。つまり、兄に対する場合、アンティゴネーは兄を男性一般に還元する自然な「情欲」ではなく、自由な個人性に根差した一般化できない欲望を持ちうる、ということになります。したがって、アンティゴネーはポリュネイケスを男性一般として性的に欲することなく、ただひとりの「この」兄として、自然による一般化を免れた(性的欲望ではない)欲望や意志、あるいは愛といってもよいでしょうか、そのような人倫的愛を向けている。裏を返せば、アンティゴネーは兄妹関係においては例外的に、女一般には収まらない、自然から逃れた自由な主体、「この」アンティゴネーとなりうる。自由な主体である「この」アンティゴネーと、「人間の掟」という一般性を代表するもうひとりの兄クレオーンとの対決を論じるうえで鍵となるのが犯罪です。

 ヘーゲルは『法哲学』において不法行為をみっつに分類しています。

1)無邪気な不正

相対する相手と拠って立つ法が一致していないために、一方の法が他方にとっては不法となる場合。

2)詐欺

一方が他方に対して不法であることを知りつつ法に則っていることを僭称し、信じこませる場合。

3)犯罪

1)と2)が同時に成立する場合。「無邪気な不法」あるいは「詐欺」においては「法」そのものの意義が保証されており、そうした「不法」はあくまで「法」の一部を否定するものであるのに対して、「犯罪」において「法」そのものの意義が否定されている」。

 

 岡崎さんの論によれば、アンティゴネーはまず神々の掟に準拠して、クレオーンが打ち立てた人間の掟に逆らいます。具体的に言うと、死んだ身内を埋葬するのは神々が定めたものであるから、クレオーンの言うように自らに背いたものの埋葬を禁止する人間の掟は無効である、という理屈です。この場合、端的に互いの拠って立つ法が全く違うので1)無邪気な不正が成立することになります。

 しかし同時に、アンティゴネーは「詐欺」をも犯しています。

夫ならば、たとえ死んでも別の夫が得られよう。子にしても、よし失ったとて、別の男から授かれよう。しかし、母も父も冥界にお隠れになった今となっては、また生まれ来る兄弟などありえぬのです。このような理から、ああ、大切な兄上、誰にもましてあなたに礼をつくしたのに、クレオーンには、それが罪であり、不埒な恐ろしい所業と思われたのだ。

このアンティゴネーの言明は、ポリュネイケスの埋葬行為が神々の掟に基づくものではなく、上で述べた「この兄」への愛に基づくものであることを物語っている、と岡崎さんは論じます。神々の掟に従っていることを僭称しつつ、アンティゴネーは法外な、ポリュネイケスという個人だけに妥当するような例外的な立法行為を行っている。従って、これは1)無邪気な不正であると同時に2)詐欺でもあるような3)犯罪行為である、ということになります。先ほど見たように、兄妹関係においてアンティゴネーは自然の影響を脱し、型にはまらない自由な愛を「この」ポリュネイケスに差し向けることができる。アンティゴネーの犯罪行為とは、神々の掟と人間の掟という法の枠組みから外れる特例措置を講ずる余地を、「この」兄への欲望を基礎として生み出すものだった。

 バトラーはヘーゲルアンティゴネーのポリュネイケスに対する欲望を仄めかしながらも最終的には否定している、という批判をしているけれども、岡崎さんは、ヘーゲルのいう犯罪行為をアンティゴネーがなす背後には、「この代替不可能な」兄への愛がはっきりと存在している、と結論づける。こうして女性の欲望をめぐるバトラーとヘーゲルのあいだの懸隔を埋めると同時に、男性中心的なヘーゲル思想のなかにフェミニスト思想のポテンシャルを見出す、というわけです。

 わたしとしては、自然的な「情欲」のない兄妹関係を結ぶ際に、アンティゴネーが、情欲のように男女なら誰にでも妥当するありふれた性的欲望ではなく、ポリュネイケスにしか妥当しない特別な欲望、あるいは自由な愛を感じている点、この両者の差異にもっと紙幅を割くべきだろうと考えます。この自然を外れた例外的な愛が、論のなかでは自然的な情欲(性欲)と見分けがつかないものになっているのではないか、と感じました。

 事前にメーリングリストにおいて指摘されていた点も含めて、対話の時間における議論の内容を紹介しておきます。

 まず文献学的な問題です。

 ヘーゲルの『法哲学』は1821年刊行であり、『精神現象学』1807年と14年ほどの時差がある。犯罪概念の解釈に『法哲学』を援用するのは文献学的に有効な議論ではないのではないか、という指摘です。『精神現象学』以前のヘーゲルの法学的議論、あるいは同時代の法哲学的議論を参照するのが文献学的には正当なのではないか。また併せて、ヘーゲルアンティゴネー論の直後に来る「法状態」のパートを一緒に検討する必要はないか。おそらくアンティゴネーが奉じる「刹那的な法」という岡崎さんのやや曖昧な表現も「法状態」を論に組み込むことでもっと精緻に論じられるのではないか。しかし『法哲学』を参照した『精神現象学』のアンティゴネー論解釈はおそらく例がなく、ヘーゲル哲学のポテンシャルを掬い上げるという問題設定であれば許容されるのではないか、という意見もありました。

 次に論の構成です。

 バトラー以外にもフェミニズム批評家の見解が引用されているが、それぞれの立場がわかりにくい。岡崎さんの立場もここに埋もれてしまう。バトラーも含めたフェミニズム批評の論点を整理したうえで、その死角をヘーゲルアンティゴネー論のなかに見つける、という立論にしたほうがクリアになるのではないか。わたし自身は、長年来バトラーにかかわってこられた岡崎さんのこだわりと、ヘーゲルのテクストに対する岡崎さんのフェミニスト読解とが、弁証法的に止揚される手前にあるのかな、という印象を受けました。ここからヘーゲルフェミニスト思想的ポテンシャルを見出す読み手としての立場を固めていく上で、この論はひとつの試練だったのかもしれませんね。それだけチャレンジングな論だった、ということでしょう。

 その他にも、やはり梗概の中心的論点だった姉妹関係とこれはどう結びつくのか、バトラーの「乱交的服従」との関係、カントの人倫との関係など、議論は尽きませんでした。とりわけ、神々の掟にアンティゴネーが背いているかどうか、というのはひとつの勘所でした。わたしの意見では、兄妹関係が神々の掟によって自然的なもの(情欲・性欲)を免れる例外的な関係として規定されている以上、アンティゴネーがポリュネイケスの埋葬を訴える際に拠って立つ法は法外なものではなく、やはり神々の掟なのではないか、と思ってしまいます。であるならば、詐欺の議論は再検討しなければならないかもしれません。議論の詳細はさて措き、自然に規定されない自由な意志・欲望がアンティゴネーにはある、とヘーゲルが認めている点に光を当てる岡崎さんの発表は、ヘーゲルアンティゴネー論にはバトラーの言語論的な位相とは毛並みを異にするフェミニスト批評のポテンシャルが眠っていることを的確に指摘するものであったのは間違いありません。その他、わたしの記憶が及ばない部分もあるかと存じますが、所定の時間を超えて、有意義な議論が一時間ほど続きました。

 岡崎さんの発表は、参加者全員に完全原稿を配布したうえでこれを読みあげるという形式をとりました。まず逆巻が、ヘーゲル精神現象学』とバトラー『アンティゴネーの主張』、そしてソフォクレスのオイディプス三部作との関係を簡単に紹介しました(フロアのサポートに感謝します)。次に、岡崎さんが原稿を読みつつ、フロアから疑問があれば、その都度質問する、という形式で発表を進めました(佐藤さんの提案でした)。わたしのような門外漢には難解な内容ではありましたが、このようなプロセスを経て、ミニマルな相互理解はできたのではないか、と思います。高度に専門的な内容をいかにして専門外の人々(学者であるかどうかは問いません)に開くか、というのは本会発足当時からの課題です。今回は専門を他者に開くという意味でも、ファシリテーターとしましては大きな前進が見られたのではないかと考えます。それでもなお、もう少し素朴な疑問を地道に重ねて、ヘーゲルの専門的な議論をより広い地平へ開いていく努力が必要だと感じました。今後の糧としたいと思います。それでは、岡崎さんの感想をもって、本報告を締めくくります。

【発表を終えて】

過日は拙稿について議論する機会を設けていただき、誠にありがとうございました。会場の設置、広報、懇親会の準備など、大変お世話になりました。
 当初はヘーゲルが『精神現象学』精神章で展開したアンティゴネー読解における姉妹関係(の不在)に注目したフェミニズム読解を行う予定でしたが、当日はヘーゲルが兄妹関係をどのように論じているかという問題を、ジュディス・バトラーによるヘーゲル批判を参照しながら再考することになりました。
 もともと同テーマで執筆中の論文がヘーゲル研究の枠に留まらない読者を想定した論集に査読無で掲載予定のため、必ずしもヘーゲル哲学を専門としないクリティカルな読者のご意見を必要としていました。わたしの現在の研究拠点が国外ということもあって、所属大学のゼミでも発表する機会を得ることもできず、なんとかしなければと思っていたところ、逆巻さんに声をかけていただきました。
 専門外にもかかわらず、事前に拙稿を読んでくださり、研究会前までに的確なコメントをくださった逆巻さん、立花さんに心から感謝いたします。当日も多くの方が、生産的な批判を寄せてくださり、優れた読者に恵まれたことをとてもありがたく思っております。また、佐藤さんの内容・形式ともに洗練されたプロのご発表を拝聴できたことも大きな糧となりました。このレベルを目指さなければと強く思いました。
 皆さまに頂いたご批判やご意見をもとに拙稿の根本的な加筆修正を行ってまいります。掲載予定の論集は来春に刊行される予定ですので、追って告知させていただければと思います。今後ともどうぞよろしくお願いします。

                                     岡崎佑香