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文芸共和国の会

考えるためのトポス

第五回「文芸共和国の会」開催のご案内

※公費申請用プログラムを公開しました(1/27)

※告知用ポスターを公開しました(1/30)

 

 

本会はそれぞれ専門を異にする研究者どうしが専門の垣根を維持したまま対話すると同時に、アカデミアの閉域を超えたところで市民どうし人文知を共有していくことを目指す場です。学者だけの場所である学会・研究会でも、学者が市民に対し講義をする市民講座でもない、学者と市民が共に同じフロアにおいて思考するアゴラ(広場)です。会員制ではありません。出入り自由です。すべて無料です。ふるってご参加ください(※本会の基本理念に関しては下のリンクを参照してください)

 

www.dropbox.com

 

※ポスター、梗概、ハンドアウト等順次公開していきます。

※本会メーリングリストでは、運営方針や具体的な開催の構想その他について闊達な議論が行われています。現在のところ、海外、全国津々浦々より、学者/市民、先生/学生の区別なくさまざまな方々に参加いただいております。メーリングリスト参加をご希望の方は「vortexsitoneあっとまーくgmail.com(逆巻)」までお願いします。

 

※以下の告知用ポスターは自由にお使いください。 

www.dropbox.com

※公費申請の方は以下のプログラムをご利用ください。

www.dropbox.com

 

 第五回「文芸共和国の会」を以下の日程で開催いたします。

 

 日時: 2017年 2月25日(土) 13:00~17:30

 会場: 徳山工業高等専門学校 教室・管理棟二階・大会議室

[交通アクセス] http://www.tokuyama.ac.jp/campus/areamap.html
[キャンパスマップ] http://www.tokuyama.ac.jp/facilities/index.html

※JR徳山駅からはバスを利用される場合は「高専」行き(終点)か「久米温泉口」行き(高専・大学下で下車)をご利用ください(「久米温泉口」方面だと軽い山登りをすることになりますので、「高専」行きのほうがオススメです)。駐車場の利用もできますので、車で来られても大丈夫です。

※会場使用料は6000円です。当日、参加者で折半します。

 

 

(13:00~10分ほど趣旨説明)

 

① 13:10~15:10

 久保 美枝 (ラファエル前派絵画)

「バーン=ジョーンズの両性具有な絵画

         ーーペルセウス・シリーズを中心にーー」

 

 1877年5月、ヴィクトリア朝ロンドンでは、絵画の出展、展示方法に関して周到に練られた、ロイヤル・アカデミー展ともパリ落選展とも異なる、グローヴナー・ギャラリー展が開かれる。ロイヤル・アカデミー展で落選した作品は出品しないという唯一の条件のもと、招待作家たちは、作品の展示に必要なスペースをあらかじめ伝えるよう求められていた(1)。様々な趣向のこらされた展示空間を、ヴィクトリア朝文化研究者であるJ.B.ブレンは「まるで婦人の私室のようであった」と例える(2)。女性的なイメージを抱かせるほどの展示空間のありようは、ある種のきわどさを含みつつ、グローヴナー・ギャラリー展は唯美主義と連動して展開をしていく。この展覧会について数回の批評を寄せた作家ヘンリー・ジェイムズは、エドワード・バーン=ジョーンズを「グローヴナー・ギャラリーの獅子」と称したが、その手腕は幾分「クィアネス(queerness)」なところによるのだという(3)。ジェイムズは、バーン=ジョーンズの描く男性とも女性ともおぼつかない人物像について語るが、その人物像の醸し出す、男らしさ/女らしさの境界を紐とくような雰囲気は、ジェイムズのみならず、美術、宗教、医学と様々な分野の書き手たちによって、不穏なものとして評される。その不穏さとは、ヴィクトリア朝の理想・規範とする男性像/女性像を揺るがしてしまうようなバーン=ジョーンズの人物像の描き方に大いに拠る。いわば挑戦的ともいえる人物像の描き方であるが、J.B.ブレンは、19世紀イギリスの男らしさへの挑戦は、両性具有というものにあり、バーン=ジョーンズの絵画は両性具有な人物たちに満ち溢れたものであるという(4)。ヴィクトリア朝絵画において、ギリシャ神話を題材とした作品では、力強く英雄的な男性像が好まれて描かれるなか、バーン=ジョーンズはペルセウス神話を主題とした作品、連作絵画《ペルセウス・シリーズ》では、甲冑を纏った力強い女神を描き上げている。騎士を思わせる女神の姿には、男性化してしまった女性像をみてとることができるが、同時に、騎士という姿における男性的なものを揺るがせてしまう危うさも秘めているだろう。本作品は未完に終わっているが、その要因には、メデューサの登場する場面において、メデューサ像そのものが構想途中のままであることが深く結びついているだろう。《ペルセウス・シリーズ》での人物描写に着目をし、男らしさ/女らしさの境界を曖昧にさせるような人物像たちによって繰り広げられる、バーン=ジョーンズによる神話世界を読み解いていきたい。

 

(1) Christopher Newall, The Grosvenor Gallery Exhibitions: Change and Continuity in the Victorian Art Word, (Cambridge University Press, Cambridge, 1995), pp.13-14.
(2) J.B. Bullen, The Pre-Raphaelite Body: Fear and Desire in Painting, Poetry, and Criticism, (Oxford University Press, Oxford, 2005), p.151.
(3) Henry James, “The Pictorial Season in London 1877”, The Painter’s Eye: Notes and Essays on the Pictorial Arts, in John L. Sweeney (ed.), (The University of Wisconsin Press, Wisconsin, 1989), p.144.
(4) J.B. Bullen, The Pre-Raphaelite Body, p.186.

 

参考文献: 加藤明子他著.『もっと知りたいバーン=ジョーンズ 生涯と作品』. アート・ビギナーズ・コレクション. 東京美術, 2012.

予習用参考サイトリンク➡ The Victorian Web (www,victorianweb.org)

 

② 15:30~17:30

 瀧波 崇 (映画理論)

「Jホラーのリアリティ

           ーーなぜその映像は怖いのか?ーー」

 

 1960年頃に映画の観客動員数、邦画の公開本数ともにピークを迎える。しかしその後、またたく間に減少し、1980年代から90年代にかけては、観客動員数はおよそ10分の1、公開本数は半分になった。ところが1990年末頃から観客動員数、公開本数ともに増加に転じる。この時期に大ヒットしたのが、いわゆるJホラーの作品群である。『リング』(1998)は興行収入10億円を突破し、その後制作された『リング2』(1999)と『リング0 バースデー』(2000)は、ともに『リング』の興行収入を超えた。また『リング』や『呪怨』などはハリウッドでリメイクされ、全米でも大ヒットを記録している。さらにオリジナル版で監督をつとめた中田秀夫(1961〜)、清水崇(1972〜)は、リメイクの際にハリウッドで監督デビューを果している。このように、Jホラーが日本映画に果した役割は大きい。では、Jホラーとはどういうものであったのか。
 Jホラーとは、いうまでもなく Japanese Horror のことであり、リメイクされた『The Ring』(2002)『The JUON/呪怨』(2004)が全米で大ヒットしたのち、日本でも使われるようになった言葉である。おもに1990年代以降の日本のホラー映画を指す。
 『リング』と『呪怨』はJホラーの代表作であるが、それらの脚本家、監督たちは口々に「小中理論」の影響力の大きさを語っている。小中理論とは、脚本家である小中千昭(1961〜)が本当に怖いホラー映画を制作するために編み出した理論のことである。Jホラーの作品群に対する、この小中理論の影響力は大きい。そこで本論では、小中理論から、Jホラーがどういうものであったかを読み解いていく。いいかえれば、小中理論の実践として、Jホラーの作品群をとらえるというわけである。
 小中理論は「ホラー映画とは何か」という問いから始まり、ホラー映画とそうでないものを慎重に区別し、さらに本当に怖い映画に必要なものと必要でないものを説明する。小中理論とは、本当に怖い映画に必要なものを探求する試みであったわけである。またその試みは『リング』の脚本家である高橋洋(1959〜)や『リング0 バースデー』の監督である鶴田法男(1960〜)らとの関わりの中で洗練され、実践されていく。小中理論から読み解くことで、Jホラーが、本当に怖い映画を模索するムーヴメントであったことが見えてくる。
 小中理論では、とりわけ幽霊の表現に注力しており、そのために「心霊写真」の手法と、またそれを成立させるための徹底したリアリティを追求している。心霊写真とは、実際にあった風景を写している写真に、写るはずのないものが写っていたり、写らねばならないものが写っていなかったりするものをいう。また心霊写真の手法とは、映画の中にそうした映像を紛れ込ませることをいう。だがその手法を成立させるためには、映像を「実際にあった風景」のように見せねばならない。そこで小中が取り入れたのは、ドキュメンタリーの手法である。ドキュメンタリーの映像は、「実際にあった風景」として私たち観客に提示される。小中の脚本家としてのデビュー作である『邪願霊』(1988)では、ドキュメンタリーのような映像のなかに、写るはずのないものを紛れ込ませることで、物語を超えて、観客を恐怖させる映像をつくり出している。
 

 参考文献・映像: 

 ①ジャック・オーモン著・武田潔訳「視点」(岩本憲児・武田潔斎藤綾子編『「新」映画理論集成2』フィルムアート社)

 

 ②小中千昭脚本/石井てるよし監督『邪願霊』(1988)

 ③小中千昭脚本/鶴田法男監督『ほんとにあった怖い話』(1991)
 ④小中千昭脚本/鶴田法男監督『ほんとにあった怖い話 第二夜』(1991)
 ⑤高橋洋脚本/中田秀夫監督『女優霊』(1996)
 ⑥小川智子・鶴田法男脚本/鶴田法男監督『亡霊学級』(1996)
 ⑦高橋洋脚本/中田秀夫監督『リング』(1998)

 ⑧小中千昭脚本/清水崇監督『稀人』(2004)

 

    

 

同日18:30~、JR徳山駅周辺にて懇親会を開催する予定です。会費は4千円程度の予定です。どなたでも参加できます。

出席希望は「vortexsitoneあっとまーくgmail.com」、逆巻までemailで通知願います。
〆切は2月11日(土)。
準備の都合上、事前の出席通知をお願いいたします。
領収書も用意しております。

 

 第五回徳山大会をもって、文芸共和国の会は一周年を迎えることとなりました。細く長くをモットーに、地道に積み上げてきました。会員はおらず、会費はなく、参加資格はなく、もっぱらメーリングリストを使ったやりとりだけで運営しているせいで、毎回参加者の顔ぶれが変わるし、当日までどれぐらいの参加者が来るのかまったく分からない、というスリルとサスペンスを味わいながら、ここまでやってきました。文化インフラに乏しい地方にさまざまな分野の方が集まって、噛み合っているのかどうかわからない対話を重ねていくこと自体に意義はあると信じて、一裏方としては今年も変わらず地道にやっていきたいと考えております。

 未体験なので不安だという方、人見知りの方、そんな専門外の難しいことはよくわからないという方。大丈夫です。おそらく条件は毎回わたしと同じです。社交辞令は不要です。基本的に名前も身分も聞くことはありません。年功序列もありません。学術的関心があれば十分楽しめます。全然知らない領域のことを理解するきっかけさえつかめばそれで十分です。

 ファシリテーターを務めるわたしも毎回、ゼロから専門外のことを学んでいますし、もともと全然社交的な人間ではありません。ただわからないことや知らなかったことについて考えることが好きなだけです。ハードルは低いのでご安心ください。思いがけない出会いを楽しみにしています。

                               (文責: 逆巻しとね)

 

第四回文芸共和国の会@北九州市立大学レビュー

 

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 世話人を務めております、逆巻しとねです。

 11/19(土)に北九州市立大学北方キャンパス本館にて開催された第四回文芸共和国の会について報告します。

 会の前日の深夜、近くの高層マンションの避雷針にどかーんどかーんと落雷がひっきりなしに吸い込まれていく音を聞きながら、翌日の天気を心配しましたが、みなさまの徳性の高さのおかげか、曇天模様ながらも交通事情に影響することもなく無事開催することができました。会員もおらず、当日迎えてのお楽しみの精神で開催してきましたが、今回は顔ぶれも一新、初めての方々とたくさんお話する機会となったのはとてもよかったと思います。今回予定が合わず来場できなかったみなさんも今回のレヴューを読んで考えるきっかけにしていただき、また次回以降都合が合えばお越しいただければと思います。

 さて、今回は最初に宗教哲学者・佐藤啓介さんにご登壇していただきました。佐藤さんは宗教哲学の再構築という大きなテーマのもとに旺盛な学術活動を展開されています。全貌に関しては、佐藤さんのHPをご覧ください。 

www.h7.dion.ne.jp

最近では藤田尚志・宮野真生子共編「愛・性・家族」三部作の第一巻『愛』に寄稿しておられます。

参考リンク: ナカニシヤ出版「愛・性・結婚の哲学」を読みましょう (1) | 江口某の不如意研究室

 

 佐藤さんのご発表「死者倫理は可能なのか?」は、あるニュースに登場した「死者の尊厳を傷つける」という表現に対する小さなひっかかりをとっかかりとして、大陸系哲学における「絶対的な他者」という遠い死者ではなく、分析系の議論、特に「死後の害の哲学」における身近な死者から始まる死者倫理についてミニマルな基礎的考察を展開していただきました。以下は、わたしなりのまとめです。

 教団宗教の弱体化・宗教的言説の空洞化が進む昨今、宗教概念そのものも歴史的構築物として扱う傾向にある宗教哲学にとっては、このまま宗教から遠ざかり空洞化の進行に加担するのをよしとはせず、むしろ従来宗教が担ってきた非日常的・非合理的経験の解釈を通じて宗教的なものを積極的に再構築していくことが喫緊の課題となる。そのうえで、宗教的言説の根源にあるべき「死者への敬意」という主題から出発するのはごく自然ななりゆきであるように思います。

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 今回佐藤さんは、死者倫理の問題系のなかでも、死者そのものに生者と同じような敬意を払う可能性と条件を問うことに話題を限定されました。さらに死は死者にとって害なのか、害であるならそれはなぜなのかを問う「死の害の哲学」、とりわけ死者が蒙る消極的な害についての考察に焦点を絞ります。そしてこの潮流の展開は、

1)死によるポテンシャルのはく奪を考える方向 

2)死者は生前/死後関係なく生の全体の主体として、あるいは(実存はしていないが)生者と同じように存在のレベルで害を受ける対象=オブジェクトとなっていると考える方向 

3)死の害の時間性を考える方向

 

の3つに整理できます。

 そのうえで以上の3)の問題系は

A)死の瞬間、生前に害が及ぶとする事後遡及的な時間性

B)死そのものが決定的な断絶とはならない、生と死が地続きにあるような時間性

 

のふたつに分類できる。このうちB)を扱うのが事前に指定された参考資料、福間聡「「死者に鞭打つ」ことは可能か」が死者倫理の問題系全体における立ち位置である、と解説いただきました。このようにしてみると、福間論文を「図」とした「地」の広がりがよくイメージできますね。

ci.nii.ac.jp

 福間論文において焦点となるのが、死者の象徴的実在、すなわち言葉として語られたりイメージとして伝播したりするような死者のありかたです。この点、死者は生者と同じように言葉やイメージのなかで生き続けている。このように死者が悪罵や歪曲の被害を生者と同じように被るという場面を想定すれば、死者は生き生きと語られ続ける限りにおいて敬意を払うべき隣人となる。

 しかし佐藤さんは、ここに死者についての語りの正しさをつけ加えることを忘れません。語られる死者が敬意を払う対象となりうるだけでは死者倫理としては不十分である。つまり死者についての語りにはある種のメタ倫理的制約が必要である。死者が生者にとって都合のよい敬意のもとに語られてはならない。語られる死者が死者本人のものと推定される人格から切り離されてはならないとする、「過去への忠実さの要請」(ポール・リクール)が問われなければならない。とすれば、分析系哲学が提示するように生き生きとしたものとして死者を語るとき、死者のすべては絶対に語りえないし死者の思いは代弁できないという大陸系哲学におけるメタ倫理的次元に向き合わなければならないのではないか、という問いかけをもって佐藤さんの発表は締めくくられました。生き生きした死者の近さと完全に語りつくすことのできない死者の遠さを同時に想起すること、とでも言い換えられるでしょうか。

 対話の時間においては、佐藤さんのミニマルな問いを敷衍する方向に進みました。「忘れられる権利」との関係、象徴的実在とゾンビの関係、脳死と語り、死者の美化/美学化の問題、死者の名を騙ること、死者を記録するメディア、非西洋世界の口承文化における死者の語り、死体損壊罪・死体遺棄罪の位置づけ、語られることのない死者というサバルタンの問題系、ヘイドン・ホワイトとカルロ・ギンズブルグによる歴史の物語論論争との関係、及び歴史修正主義の問題、死後の世界のイメージなどなど、一時間ほど活発な議論が続きました。

 身近な問題から出発し、学術的に高度なところまで議論を展開することに成功したと思います。また佐藤さんのプレゼンの仕方、ハンドアウトの構成、言葉の使い方にも大いに蒙を啓かれたことをここに付言しておきます。とても生き生きとした議論であり、ハンドアウトを見なくとも内容が理解できる明晰さがありました。わたし自身、学会発表等でこのスタイルを真似してみたいと思いました。

 福間論文の予習に始まり、そしてこの討議を経て、さらに佐藤さん自身の感想の末尾にリンクが貼られている新聞連載記事「死者をどう記憶するか」を読むことを通じ、さらに死者倫理について理解を深めることになれば幸いです。わたしとしては、佐藤さんのインタヴュー記事オバマ氏演説:宗教哲学からどう読むか?「死者の声」を代弁してはならない」(1~3 『クリスチャン・トゥデイ』2016年6月29日)も併せてお読みいただくことをお勧めします。

www.christiantoday.co.jp 

 

 

以下、佐藤さんに寄稿いただいた感想です。

【発表をおえて】

 まず、当日、発表を聴いていただき、またご質問などをいただいた皆様に、感謝申し上げます。
 概要にもあるとおり、当日は、「なぜ死者を敬わなければいけないのか」という主題をめぐって、あえて現代思想のスタンダードである他者論的な倫理から出発せず、「死の害の哲学」を一つの突破口として、「死後も害を被りうる」ような死者の存在のあり方を考えることで、死者の名誉を毀損してはいけない理由を考察しました。生きている人にも死んでいる人にも、等しく「言説やイメージにおいて存在する社会的・象徴的人格」という次元があり、その人格(平たくいえば、その人の社会的評価・社会的名誉)は、仮に死者であってもなお言説のなかで生きつづけている限り、「生き生きとして」おり、「傷つくことができる」。それが、死者を敬う一つの根拠たりうるのではないか、という発表をおこないました。
 異なる分野に関心をもつ人々が多く集まり、かつ、北九州という、私自身もなじみのない土地で発表することもあり、正直なところ発表前はどのような反応をいただけるのか予想もつきませんでした。しかし、蓋を開けてみれば、所定の発表時間のあいだ、質問が途切れることがなく、特に、意図的に主題を絞りに絞った発表だっただけに、そこから零れ落ちた視角からの鋭いコメントを多数いただき、感謝のかぎりです。とりわけ、文学系の方が比較的多かったためか、ある種のフィクショナルな想像力とその限界という論点にかかわるコメントが多く寄せられたのが印象的でした。これだけ議論が盛り上がっただけに、もう少しそちらの方面の議論にも展開させればよかったかと、いささか反省しております。
 なお、そのあえて展開しなかった、発表者の他者論的な死者論については、以前新聞に寄稿したことがあり、発表の補足として、ご参照いただければ幸いです(以下のwebページの、後半画像3枚で全文を読むことができます)。

                                     佐藤啓

「死者をどう記憶するか(上)(中)(下)」(中日新聞2016年6月28日付、7月5日付、7月12日付、各朝刊より) 

 http://nie.jp/month/contest_newspaper/2016/detail/1-3.html

 

 佐藤さんの発表に引き続き、岡崎佑香さんに 御登壇願いました。岡崎さんはヘーゲル哲学をフェミニズムから読み解く研究をされていて、スラヴォイ・ジジェク+マルクス・ガブリエルの共著『神話・狂気・哄笑』の共訳者でもあります。

togetter.com

 岡崎さんには「ヘーゲルアンティゴネー論とフェミニズム」と題してご発表いただきました。告知段階の梗概では『アンティゴネー』における姉妹関係が焦点となっておりましたが、当日は兄妹関係を扱うご発表でした。おそらく『精神現象学』のような弁証法的紆余曲折が梗概と発表とのあいだにあったのだろう、と推察します。以下、わたしなりのまとめです。

 ジュディス・バトラーアンティゴネーの主張』は、ヘーゲルが『精神現象学』において展開するアンティゴネー読解のラディカルさを理解しているように思われるのに、なぜかそれを単純化してしまっている。具体的に言うと、バトラーはヘーゲルの読解を、兄クレオーンの拠って立つ「人間の掟」と妹アンティゴネーの拠って立つ「神々の掟」という図式に収斂させてしまう。バトラーの読みは、オイディプスの呪いが父と兄の差異をかき乱し欲望を乱反射させる「乱交的服従」をその言語の働きに認める方向に進む、つまりエディプス・コンプレックス的な欲望の構図の脱構築へと向かう。しかしそこまでの過程でヘーゲルが提示している問題、とりわけ「兄妹関係」と「犯罪」概念のラディカルさをバトラーは無視してしまう。バトラーが自らのアンティゴネー読解を展開するうえで、以上の要素を軽視している点に岡崎さんは着目しました。これらをヘーゲル思想の未だ語られざるフェミニズム読解のポテンシャルとして掬い上げる。そうすると同時に、「乱交的服従」に至るバトラーの洞察の犠牲となっているフェミニスト的盲目を新たなポテンシャルとして浮き彫りにする。いわば、ヘーゲルとバトラーの読みを弁証法的にぶつけ、ヘーゲル精神現象学』におけるフェミニズム的読解の萌芽が見える地点、すなわち両者の止揚を目指す、というのが岡崎さんの発表の趣旨であった、とわたしは理解しています。     

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さて大枠を見たうえで、細部に入ります。岡崎さんの発表において焦点となったのは、女性の男性に対する関係においてヘーゲルが特権視する「兄妹関係」と、ヘーゲル法哲学』を援用したアンティゴネーの「犯罪」行為解釈でした。

 補助線を引いておきます。ヘーゲルは、『精神現象学』精神章において女性が男性と結ぶ関係(神々の掟に定められた男女関係)をみっつに分類しています。

1)夫と妻の関係

2)母と息子の関係

3)兄妹関係

 

 このうち1)と2)の男女間関係は欲望や情欲といった「自然」に囚われている。自然の克服がひとつの主要なテーマとなっているヘーゲル哲学において、自然に囚われている限り自由な主体とは言えない。家族内関係においては女性は自由ではない、とヘーゲルは考える(もともと西洋では女性は男性よりも自然の力に曝されやすいと見られてきました)。しかし例外となるのが3)の兄妹関係です。ヘーゲルアンティゴネーが死した兄ポリュネイケスと結ぶ関係は「同じ血縁であるが、この血縁は両者において安定し、均衡を得ている。それゆえ両者は情欲を持ちあう(begehren)こともないし、一方が他方に自立存在(Fürsichsein)を与えたのでもなく、一方が他方からそれを受け取ったのでもなく、互いに自由な個人性(Individualität)である」と論じています。兄と妹の間の「承認は純粋であり、自然的関係を混じえていない」のです。

 神々の掟に定められた兄妹関係は、自然を克服している。それゆえに家族内関係とは異なり、兄と相対する場合、女性は欲望の一般化を免れている。つまり、兄に対する場合、アンティゴネーは兄を男性一般に還元する自然な「情欲」ではなく、自由な個人性に根差した一般化できない欲望を持ちうる、ということになります。したがって、アンティゴネーはポリュネイケスを男性一般として性的に欲することなく、ただひとりの「この」兄として、自然による一般化を免れた(性的欲望ではない)欲望や意志、あるいは愛といってもよいでしょうか、そのような人倫的愛を向けている。裏を返せば、アンティゴネーは兄妹関係においては例外的に、女一般には収まらない、自然から逃れた自由な主体、「この」アンティゴネーとなりうる。自由な主体である「この」アンティゴネーと、「人間の掟」という一般性を代表するもうひとりの兄クレオーンとの対決を論じるうえで鍵となるのが犯罪です。

 ヘーゲルは『法哲学』において不法行為をみっつに分類しています。

1)無邪気な不正

相対する相手と拠って立つ法が一致していないために、一方の法が他方にとっては不法となる場合。

2)詐欺

一方が他方に対して不法であることを知りつつ法に則っていることを僭称し、信じこませる場合。

3)犯罪

1)と2)が同時に成立する場合。「無邪気な不法」あるいは「詐欺」においては「法」そのものの意義が保証されており、そうした「不法」はあくまで「法」の一部を否定するものであるのに対して、「犯罪」において「法」そのものの意義が否定されている」。

 

 岡崎さんの論によれば、アンティゴネーはまず神々の掟に準拠して、クレオーンが打ち立てた人間の掟に逆らいます。具体的に言うと、死んだ身内を埋葬するのは神々が定めたものであるから、クレオーンの言うように自らに背いたものの埋葬を禁止する人間の掟は無効である、という理屈です。この場合、端的に互いの拠って立つ法が全く違うので1)無邪気な不正が成立することになります。

 しかし同時に、アンティゴネーは「詐欺」をも犯しています。

夫ならば、たとえ死んでも別の夫が得られよう。子にしても、よし失ったとて、別の男から授かれよう。しかし、母も父も冥界にお隠れになった今となっては、また生まれ来る兄弟などありえぬのです。このような理から、ああ、大切な兄上、誰にもましてあなたに礼をつくしたのに、クレオーンには、それが罪であり、不埒な恐ろしい所業と思われたのだ。

このアンティゴネーの言明は、ポリュネイケスの埋葬行為が神々の掟に基づくものではなく、上で述べた「この兄」への愛に基づくものであることを物語っている、と岡崎さんは論じます。神々の掟に従っていることを僭称しつつ、アンティゴネーは法外な、ポリュネイケスという個人だけに妥当するような例外的な立法行為を行っている。従って、これは1)無邪気な不正であると同時に2)詐欺でもあるような3)犯罪行為である、ということになります。先ほど見たように、兄妹関係においてアンティゴネーは自然の影響を脱し、型にはまらない自由な愛を「この」ポリュネイケスに差し向けることができる。アンティゴネーの犯罪行為とは、神々の掟と人間の掟という法の枠組みから外れる特例措置を講ずる余地を、「この」兄への欲望を基礎として生み出すものだった。

 バトラーはヘーゲルアンティゴネーのポリュネイケスに対する欲望を仄めかしながらも最終的には否定している、という批判をしているけれども、岡崎さんは、ヘーゲルのいう犯罪行為をアンティゴネーがなす背後には、「この代替不可能な」兄への愛がはっきりと存在している、と結論づける。こうして女性の欲望をめぐるバトラーとヘーゲルのあいだの懸隔を埋めると同時に、男性中心的なヘーゲル思想のなかにフェミニスト思想のポテンシャルを見出す、というわけです。

 わたしとしては、自然的な「情欲」のない兄妹関係を結ぶ際に、アンティゴネーが、情欲のように男女なら誰にでも妥当するありふれた性的欲望ではなく、ポリュネイケスにしか妥当しない特別な欲望、あるいは自由な愛を感じている点、この両者の差異にもっと紙幅を割くべきだろうと考えます。この自然を外れた例外的な愛が、論のなかでは自然的な情欲(性欲)と見分けがつかないものになっているのではないか、と感じました。

 事前にメーリングリストにおいて指摘されていた点も含めて、対話の時間における議論の内容を紹介しておきます。

 まず文献学的な問題です。

 ヘーゲルの『法哲学』は1821年刊行であり、『精神現象学』1807年と14年ほどの時差がある。犯罪概念の解釈に『法哲学』を援用するのは文献学的に有効な議論ではないのではないか、という指摘です。『精神現象学』以前のヘーゲルの法学的議論、あるいは同時代の法哲学的議論を参照するのが文献学的には正当なのではないか。また併せて、ヘーゲルアンティゴネー論の直後に来る「法状態」のパートを一緒に検討する必要はないか。おそらくアンティゴネーが奉じる「刹那的な法」という岡崎さんのやや曖昧な表現も「法状態」を論に組み込むことでもっと精緻に論じられるのではないか。しかし『法哲学』を参照した『精神現象学』のアンティゴネー論解釈はおそらく例がなく、ヘーゲル哲学のポテンシャルを掬い上げるという問題設定であれば許容されるのではないか、という意見もありました。

 次に論の構成です。

 バトラー以外にもフェミニズム批評家の見解が引用されているが、それぞれの立場がわかりにくい。岡崎さんの立場もここに埋もれてしまう。バトラーも含めたフェミニズム批評の論点を整理したうえで、その死角をヘーゲルアンティゴネー論のなかに見つける、という立論にしたほうがクリアになるのではないか。わたし自身は、長年来バトラーにかかわってこられた岡崎さんのこだわりと、ヘーゲルのテクストに対する岡崎さんのフェミニスト読解とが、弁証法的に止揚される手前にあるのかな、という印象を受けました。ここからヘーゲルフェミニスト思想的ポテンシャルを見出す読み手としての立場を固めていく上で、この論はひとつの試練だったのかもしれませんね。それだけチャレンジングな論だった、ということでしょう。

 その他にも、やはり梗概の中心的論点だった姉妹関係とこれはどう結びつくのか、バトラーの「乱交的服従」との関係、カントの人倫との関係など、議論は尽きませんでした。とりわけ、神々の掟にアンティゴネーが背いているかどうか、というのはひとつの勘所でした。わたしの意見では、兄妹関係が神々の掟によって自然的なもの(情欲・性欲)を免れる例外的な関係として規定されている以上、アンティゴネーがポリュネイケスの埋葬を訴える際に拠って立つ法は法外なものではなく、やはり神々の掟なのではないか、と思ってしまいます。であるならば、詐欺の議論は再検討しなければならないかもしれません。議論の詳細はさて措き、自然に規定されない自由な意志・欲望がアンティゴネーにはある、とヘーゲルが認めている点に光を当てる岡崎さんの発表は、ヘーゲルアンティゴネー論にはバトラーの言語論的な位相とは毛並みを異にするフェミニスト批評のポテンシャルが眠っていることを的確に指摘するものであったのは間違いありません。その他、わたしの記憶が及ばない部分もあるかと存じますが、所定の時間を超えて、有意義な議論が一時間ほど続きました。

 岡崎さんの発表は、参加者全員に完全原稿を配布したうえでこれを読みあげるという形式をとりました。まず逆巻が、ヘーゲル精神現象学』とバトラー『アンティゴネーの主張』、そしてソフォクレスのオイディプス三部作との関係を簡単に紹介しました(フロアのサポートに感謝します)。次に、岡崎さんが原稿を読みつつ、フロアから疑問があれば、その都度質問する、という形式で発表を進めました(佐藤さんの提案でした)。わたしのような門外漢には難解な内容ではありましたが、このようなプロセスを経て、ミニマルな相互理解はできたのではないか、と思います。高度に専門的な内容をいかにして専門外の人々(学者であるかどうかは問いません)に開くか、というのは本会発足当時からの課題です。今回は専門を他者に開くという意味でも、ファシリテーターとしましては大きな前進が見られたのではないかと考えます。それでもなお、もう少し素朴な疑問を地道に重ねて、ヘーゲルの専門的な議論をより広い地平へ開いていく努力が必要だと感じました。今後の糧としたいと思います。それでは、岡崎さんの感想をもって、本報告を締めくくります。

【発表を終えて】

過日は拙稿について議論する機会を設けていただき、誠にありがとうございました。会場の設置、広報、懇親会の準備など、大変お世話になりました。
 当初はヘーゲルが『精神現象学』精神章で展開したアンティゴネー読解における姉妹関係(の不在)に注目したフェミニズム読解を行う予定でしたが、当日はヘーゲルが兄妹関係をどのように論じているかという問題を、ジュディス・バトラーによるヘーゲル批判を参照しながら再考することになりました。
 もともと同テーマで執筆中の論文がヘーゲル研究の枠に留まらない読者を想定した論集に査読無で掲載予定のため、必ずしもヘーゲル哲学を専門としないクリティカルな読者のご意見を必要としていました。わたしの現在の研究拠点が国外ということもあって、所属大学のゼミでも発表する機会を得ることもできず、なんとかしなければと思っていたところ、逆巻さんに声をかけていただきました。
 専門外にもかかわらず、事前に拙稿を読んでくださり、研究会前までに的確なコメントをくださった逆巻さん、立花さんに心から感謝いたします。当日も多くの方が、生産的な批判を寄せてくださり、優れた読者に恵まれたことをとてもありがたく思っております。また、佐藤さんの内容・形式ともに洗練されたプロのご発表を拝聴できたことも大きな糧となりました。このレベルを目指さなければと強く思いました。
 皆さまに頂いたご批判やご意見をもとに拙稿の根本的な加筆修正を行ってまいります。掲載予定の論集は来春に刊行される予定ですので、追って告知させていただければと思います。今後ともどうぞよろしくお願いします。

                                     岡崎佑香

第4回「文芸共和国の会」のご案内

※岡崎佑香さんのご発表の梗概を追記しました(10/19)。

※ポスターをアップしました(10/8)。dropbox画面右上よりダウンロードできます。ご自由にお使いください。

www.dropbox.com

 

 本会はそれぞれ専門を異にする研究者どうしが専門の垣根を維持したまま対話すると同時に、アカデミアの閉域を超えたところで市民どうし人文知を共有していくことを目指す場です。学者だけの場所である学会・研究会でも、学者が市民に対し講義をする市民講座でもない、学者と市民が共に同じフロアにおいて思考するアゴラ(広場)です。会員制ではありませんので出入り自由です。すべて無料です。ふるってご参加ください(※本会の基本理念に関しては下のリンクを参照してください)

www.dropbox.com

 

※ポスター、梗概、ハンドアウト等順次公開していきます。

※本会メーリングリストでは、運営方針や具体的な開催の構想その他について闊達な議論が行われています。現在のところ、海外、全国津々浦々より、学者/市民、先生/学生の区別なくさまざまな方々に参加いただいております。メーリングリスト参加をご希望の方は「vortexsitoneあっとまーくgmail.com(逆巻)」までお願いします。

 

第四回「文芸共和国の会」を以下の日時・場所で開催します。 

 

日時:平成28年 11月19日(土)13:00~18:00

場所:北九州市立大学 本館 D-203

所在地 〒802-8577 福岡県北九州市小倉南区北方四丁目2番1号 

www.kitakyu-u.ac.jp

 

※当日、駐車スペースを10台分確保しております。お車でお越しの方は、前日までに「vortexsitoneあっとまーくgmail.com」(逆巻)まで「駐車希望」の旨銘記し、氏名・連絡先も併せてご連絡ください。当イベントに関係のない方のご利用は受け付けません。

 

 

 (13:00~10分ほど趣旨説明)

 

① 13:10~15:10

佐藤 啓介 (宗教哲学

    "死者倫理は可能なのか?

      ――死んだ人を敬うべき理由と条件を考える――"

 

レヴィナスデリダら、大陸系哲学の他者論を通じて「他者としての死者に対する倫理」という主題は、近年では広く共有されるようになっていると思われる。だが、そもそも死者を本当に他者として尊重しなければいけないのか、という点についてはまだまだ考える余地のある問題ではないかと思われる。本発表では、死者をどのように(またどの程度まで)倫理的配慮の対象として位置づけられるかという点に問題を絞り、昨今の分析系の議論や宗教学の知見を手かがりに考えたい。とりわけ、その際に主題となるのが、倫理的配慮の対象としての死者の存在論的地位であり、その考察を一つの突破口としてみる予定である。

※参考文献:福間聡「死者に鞭打つ」ことは可能か――死者に対する危害に関する一考察」

ci.nii.ac.jp

 

②15:30~17:30

岡崎 佑香 (フェミニズム批評)

     "ヘーゲルアンティゴネー論とフェミニズム"

 ヘーゲルが『精神現象学』精神章で展開する『アンティゴネー』論は、フェミニズム批評――有名なところでは、セイラ・ベンハビブ、リュス・イリガライ、パトリシア・ミルズ、ジュディス・バトラーによるものが挙げられよう[1]――において、度々論じられている。

 Mary Rawlinson [2]によれば、これらのフェミニズム批評に共通してみられる特徴は、ヘーゲルの捉え損なったアンティゴネーの政治的意義を各々の観点から再評価するという点であり、こうしたアンティゴネー再評価のなかでその意義が見逃され、ときにアンティゴネーを再評価するために不当に過小評価されているのは、ポリネイケスのもう一人の妹でありアンティゴネーの妹でもあるイスメネーである。こうした背景をふまえ、イスメネーや、イスメネーとアンティゴネーの姉妹関係に焦点化するいくつかの先行研究を参照しながら、『アンティゴネー』においてイスメネーとアンティゴネーがどのように描かれているかを確認する。

 以上をふまえ本発表で考察したいのは、当該章でヘーゲルが『アンティゴネー』を参照しながら論じる、「女性」および「姉妹」概念についてである。従来の研究においては、ヘーゲルが「女性」や「姉妹」について論じるとき、それは暗にアンティゴネーのことを意味するということが前提とされてきた。これに対して本発表は、ヘーゲルが「女性」あるいは「姉妹」というとき、それが意味するのはアンティゴネーとイスメネーが念頭に置かれていることを論じ、ヘーゲルの「女性」/「姉妹」論の新たな解釈をひらくことを目指したい。

 

[1] ベンハビブ、ミルズ、バトラーの批評については明石憲昭(「ヘーゲルジェンダー論をどう読むか?――ヘーゲルの男女観に関する一考察」、木本喜美子・貴堂嘉之編『ジェンダーと社会――男性史・軍隊・セクシュアリティ』、2010年)を見よ。

[2] Mary C. Rawlinson. (2014). “Beyond Antigone: Ismene, Gender, and the Right of Life.” In The Return of Antigone.

 

 

同日18:30より小倉北区内にて懇親会を開催する予定です。会費は5千円程度の予定です。どなたでも参加できます。

出席希望は「vortexsitoneあっとまーくgmail.com」、逆巻までemailで通知願います。
〆切は11月5日(土)。
準備の都合上、事前の出席通知をお願いいたします。
領収書も用意しております。

 

 今回で「文芸共和国の会」も第四回を数えることになりました。これで福岡・山口・広島と三県を一巡し、また福岡に戻ってまいりました。今回は北九州市立大学です。市民のみなさんにとっては、もしかしたらモノレールの競馬場前駅の近くにある大学と言ったほうがわかりやすいかもしれません。何を隠そうわたし自身その昔、ウィークデイは大学に、週末は競馬場に、と連日「授業」を受けておりました。高い授業料ではありましたが、懐かしい思い出です。

 土曜日はなるほど、中央競馬の開催日であり、きっとみなさん、翌日のGⅠレースを睨みつつ、思考力をフルに発揮されることでしょう。しかし、馬券は今やネットでも買えるではありませんか。競馬場に向かう足を大学のほうに向けていただければ、競馬とは異なる思考の世界が広がっています。一度、人文学の専門知に触れて、競馬とはまた一味違った思考力を働かせて、みんなで対話してみませんか。

 競馬場のすぐ隣で行われるこのたびの会が、市民の方々にとって人文社会系の知を身近に感じるよいきっかけとなることを期待しています。もちろん、学者のみなさん、生徒/学生/院生のみなさんもどなたであれ歓迎します。

                                   (文責: 逆巻 しとね)

 

 

 

 

第三回文芸共和国の会@広島レヴュー

 ※読書会の要約集を公開しました(10/16)

 

 世話人を務めております、逆巻しとねです。

 9/11(日)に県立広島大学サテライトキャンパスで行われた第三回文芸共和国の会について報告します。

 広島カープ25年ぶりのリーグ優勝が決定した翌日ということもあり、広島の街はどこも人波と車列でごったがえしていました。そんな中、遠方よりお越しいただきましたみなさまにまず感謝申し上げます。初めての参加者数名からとても前向きな感想をいただきました。本会も福岡・山口・広島と一巡して、ようやく少しはスタイルが固まってきたのかもしれません。今後も継続は力なりの精神で、微調整を加えながら年四回の開催を維持して参りたいと思います。

 はじめに、現代アメリカ文学がご専門の栗原武士さんに、アメリカ合衆国における労働者階級研究に関するご発表をしていただきました。先行研究を総合的に扱いながらも丁寧に分類していただいたので、とてもわかりやすかったです。また、発表者自身の来歴から語り起こした後に論を展開する、という構成にも感銘を受けました。研究と生がオーバーラップして、聴衆は自分の問題として引き受けることができたのではないでしょうか。そのためか、積極的な意義づけが行われるマルクス主義的な労働者階級とは似て非なる「非」中産階級として意識にのぼる労働者のアイデンティティ、イギリスの絵画における労働者の表象、アイルランド系アメリカ人の貧困の表象、生涯変わらないインドのカーストと階級の可変性など、さまざまな議論が活発に交わされました。映像の使用や書籍展示など随所に関心を惹く工夫があった点も今後運営していくうえで参考になるでしょう。わたし自身、ファシリテーターを務めるのは二回目でしたが、みなさんのご協力もあり自由に発言できる雰囲気があったように思います。

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 次にトマス・ラカーの著書_The Work of the Dead_をテクストに読書会を行いました。コーディネーターを田多良俊樹さんにお願いし、担当者が各自レジュメを作製し、口頭で発表するという形式をとりました。しかしなにぶん本文が500ページを超える大著で、これを二時間半ほどのあいだに終えることは難しく、議論をする時間も確保することができませんでした。これはひとえに選書したわたしの責任です。今後、読書会を開催する際には、課題図書の選定から慎重に行い、また形式についても再検討が必要であると思われます。しかしながら、各自の発表方法・レジュメの作製方法が実に個性的で、バラエティに富んでいたというのは意外な発見でした。性格が出るものなのですね。

  読書会の要約集をdropbox経由で公開します。

www.dropbox.com

 

 以下に栗原さんのレポートを公開します。

 

 

         アメリカ労働者階級研究のいま

     ――その歴史的経緯と将来的展望――
                      文責: 栗原武士

【発表の概要】
 本発表では1990年代に産声をあげた一群の労働者階級研究、John RussoとSherry Lee Linkonのいう「新労働者階級研究」(the new working-class studies) について、その特色と主に文学研究における実践に重きを置いて解説を行った。前段としてそれ以前の労働者階級についての諸研究の動向をまとめることで、新労働者階級研究が、従来の労働者階級研究における反省をふまえ、新たな特色を持っていることを示すことができた。いささか乱暴なまとめ方をするならば、新労働者階級研究は、労働者階級の人々の労働、政治的闘争のみならず、日常生活における権力関係に注目し、生活、言語、労働者階級の視点などに階級がどのように作用するのかを問う研究領域だといえるだろう。つまり、労働者階級という概念を包括的に理解するためには労働 (の場) や収入を分析するだけでは不十分であり、労働者階級の人々の職場以外での生活様式、つまり彼らのもつ固有の文化にも目配りをすることが必要なのである。
 そのような特色を持つ新労働者階級研究では、労働者階級の包括的理解のための重要な手法のひとつとして、様々なジャンル・メディアにおける労働者階級表象に着目する研究の重要性が指摘されている。本発表ではこのことに鑑み、1970-80年代の白人男性労働者の経済的・精神的苦境を描いたRaymond CarverとRussell Banksの諸作品に触れ、階級という概念が彼らの男性性不安・白人性不安にどのように関連しているかを考察した。

 

【発表を終えて】
 発表者は現代アメリカ文学を専門としているが、各参加者の専門知の共有をめざす「文芸共和国の会」という場の特色を生かすため、発表では新労働者階級研究におけるさまざまな文献の紹介を意識的に行った。オーディエンスの参考のために、研究会場では関連書籍の展示も行った。実際に本を手に取って目次に目を通すだけでも、書籍の内容を大まかに理解していただけたのではないかと思う。今後も可能な範囲で (書籍の運搬は少し骨が折れた) このような試みが続けられるとよいのではないか。
 本発表の準備のために様々な資料と文献にあたったが、発表者自身まだまだ理解が浅い点も数多くある。労働者階級文学作品が提示する労働者階級特有の日常的経験とセンチメントをどのように言語化するかという問題を、今後も継続して考えていきたい。

第三回 「文芸共和国の会」開催のお知らせ

第三回「文芸共和国の会」を以下の日時・場所で開催します。

※梗概、ハンドアウト等順次公開していきます。

※本会メーリングリストでは、運営方針や具体的な開催の構想その他について闊達な議論が行われています。現在のところ、海外、全国津々浦々より、学者/市民、先生/学生の区別なくさまざまな方々に参加いただいております。メーリングリスト参加をご希望の方は「vortexsitoneあっとまーくgmail.com(逆巻)」までお願いします。

 

※下のリンクよりdropbox経由でポスターをDLできます。自由にお使いください。

www.dropbox.com

日時:平成28年 9月11日(日曜日)13:00~18:00
場所:サテライトキャンパスひろしま
http://www.pu-hiroshima.ac.jp/site/satellite/accessmap.html

 

googleマップで検索すると、県立広島大学広島キャンパス(宇品)の方に誘導されてしまうのでご注意ください。
googleマップを利用される方は、以下の住所を直接入力された方がベターです。

〒730-0051 広島市中区大手町1丁目5-3

 

 

13:00~14:30 

 

1. 発表及び討論

「アメリカ労働者階級研究のいま

        ――その歴史的経緯と将来的展望」

       発表者: 栗原 武士 (県立広島大学

 

 ヨーロッパ式の階級社会と決別して建設されたアメリカ社会において、階級という概念は伝統的に「見えないもの」、あるいは「見たくないもの」として存在してきたように思われます。しかしながら、1990年代以降、ますます進む経済のグローバル化と富の集中という社会的事象の中で、アメリカにおいても経済格差を中心的関心とする学術活動が少しずつ活発化してきました。
 本発表ではそのような動きの基調をなすアメリカ労働者階級研究に焦点を当て、その歴史的経緯を紹介した上で、発表者の専門分野である現代アメリカ文学レイモンド・カーヴァーラッセル・バンクス、リチャード・フォード等を予定しています)における労働者のイメージについて分析を加えます。また質疑応答では、労働者階級研究の有効性とその将来的展望について、フロアの皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

                            (文責: 栗原武士)

 

14:50~17:40

 

2. 読書会 

課題図書: Thomas Laqueur  

The Work of the Dead: A Cultural History of Mortal Remains (Princeton UP: 2015) 

   コーディネーター: 田多良俊樹(安田女子大学

アマゾンへのリンク→https://www.amazon.co.jp/Work-Dead-Cultural-History-Remains-ebook/dp/B014EE0STK/ref=sr_1_2?s=digital-text&ie=UTF8&qid=1467857114&sr=1-2

 

※課題図書の内容・問題設定・疑問点をコーディネーター及び各セクションの担当者による報告によって共有したのち、これをたたき台とし、死者、及びその周辺をテーマに自由討論したいと考えています。原書が読めない方でも問題を共有し、議論に参加できるよう配慮しますので、お気軽にどうぞ。

 

 

※18:30~ 懇親会 鉄ぱん屋 弁兵衛 八丁堀店

www.benbe.jp

会費は5千円程度の予定です。
出席希望は「vortexsitoneあっとまーくgmail.com」逆巻までemailで通知願います。
〆切は8月31日(土)。
準備の都合上、事前の出席通知をお願いいたします。
領収書も用意しております。

 

今回で「文芸共和国の会」も第三回を数えることになりました。これで福岡・山口・広島と三県を一巡することになります。第一回は工業大学、第二回は工業高専、そして第三回は広島市内の一角にあるサテライトキャンパスでの開催です。まさしく市井に根差した会場ですね。

高等教育・研究機関の多くは広大な敷地を必要とするため、地価の安い山手のほうに位置している場合がほとんどです。そのため、少し交通の便が悪かったり、一般市民には縁遠い場所だったりすることもあるでしょう。しかしあまり知られていないことなのかもしれませんが、多くの大学が街の中心部にサテライトキャンパスを所有しています。アクセスが良く街に溶け込んだ立地を活かして、学生の教育に利用したり、市民講座を開いたり、学会を開催したりしています。

広島市内のど真ん中で開催されるこのたびの会が、市民の方々にとって人文社会系の知を身近に感じるよいきっかけとなることを期待しています。もちろん、学者のみなさん、院生のみなさんも、どなたであれ歓迎します。

 

本会はそれぞれ専門を異にする研究者どうしが専門の垣根を維持したまま対話すると同時に、アカデミアの閉域を超えたところで市民どうし人文知を共有していくことを目指す場です。学者だけの場所である学会・研究会でも、学者が市民に対し講義をする市民講座でもない、学者と市民が共に同じフロアにおいて思考するアゴラ(広場)です。会員制ではありませんので出入り自由です。すべて無料です。ふるってご参加ください(※本会の基本理念に関しては下のリンクを参照してください)。

www.dropbox.com

                                文責: 逆巻しとね

今年度の開催予定

今年度の開催日時・場所が決まりましたので、お知らせします(発表者は決定済みです)。

詳細は順次、公開してまいります。

 

第三回 2016年 9月11日(日)13:00~ 発表一件・読書会一件

republicofletters.hatenadiary.jp

   

第四回 2016年 11月19日(土)13:00~ 発表二件

   (福岡県 北九州市立大学 新館 D-203)

 

第五回 2017年 2月25日(土)13:00~ 発表二件

   (山口県 徳山工業高専

セクシズムを逆撫でに読むための文献リスト

 学生に対してセクシスト的発言をためらいなくする先生がいる、あるいは女性が社会に出ることは危険であるという趣旨の卒論を書く学生がいる、という話題が第二回「文芸共和国の会」終了後の懇親会において出ました。
 学生、市民、ジェンダーセクシュアリティ系の領域を専門とはしない研究者のあいだで、フェミニズムに関連する最低限の知見を共有することは、喫緊の課題といえるでしょう。
 依然として潜在・顕在する家父長的な世界を所与として生きざるを得ない現状に鑑み、女性がフェミニズムの知見に触れることはとても重要です。しかし男性もまた、家父長的な暴力を内的に反省し、規範の刷りこみを受けているということを自覚し続ける必要性から、フェミニズムの成果を吸収しなければならない。セクシュアリティ性自認の多様性(LGBTQ)を出発点とする際にも、男社会や家父長制という素朴な暴力を無視することはできないでしょう。

 フェミニズムの議論に対する批判はさまざまな角度から可能であると思います。しかしなによりもまずは知らないと話になりません。セクシズムは無知と素朴さに訴えるからです。フェミニズムに無知なまま、同程度に無知なセクシストの被害に遭ったり、疑いを持つことなく所与の規範に染まっていったりする現状に抗う必要があると思います。

 そこで本会ではメーリングリスト参加ご希望の方はvortexsitone[あっとまーく]gmail.comまで)を介して、日本語で読めるフェミニズムの基本文献を募りました。領域、時代、地域は多岐にわたります。選書に偏りはありますし、さまざまな欠落があることと思います。しかしこれがセクシズムについてともに考え始めるための一助となれば幸いです。

※(あくまでも参考程度ですが)専門性の見地からから判断して「難度」(院生/大学生/高校生)を設定しています。

 

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