文芸共和国の会

考えるためのトポス

第四回文芸共和国の会@北九州市立大学レビュー

 

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 世話人を務めております、逆巻しとねです。

 11/19(土)に北九州市立大学北方キャンパス本館にて開催された第四回文芸共和国の会について報告します。

 会の前日の深夜、近くの高層マンションの避雷針にどかーんどかーんと落雷がひっきりなしに吸い込まれていく音を聞きながら、翌日の天気を心配しましたが、みなさまの徳性の高さのおかげか、曇天模様ながらも交通事情に影響することもなく無事開催することができました。会員もおらず、当日迎えてのお楽しみの精神で開催してきましたが、今回は顔ぶれも一新、初めての方々とたくさんお話する機会となったのはとてもよかったと思います。今回予定が合わず来場できなかったみなさんも今回のレヴューを読んで考えるきっかけにしていただき、また次回以降都合が合えばお越しいただければと思います。

 さて、今回は最初に宗教哲学者・佐藤啓介さんにご登壇していただきました。佐藤さんは宗教哲学の再構築という大きなテーマのもとに旺盛な学術活動を展開されています。全貌に関しては、佐藤さんのHPをご覧ください。 

www.h7.dion.ne.jp

最近では藤田尚志・宮野真生子共編「愛・性・家族」三部作の第一巻『愛』に寄稿しておられます。

参考リンク: ナカニシヤ出版「愛・性・結婚の哲学」を読みましょう (1) | 江口某の不如意研究室

 

 佐藤さんのご発表「死者倫理は可能なのか?」は、あるニュースに登場した「死者の尊厳を傷つける」という表現に対する小さなひっかかりをとっかかりとして、大陸系哲学における「絶対的な他者」という遠い死者ではなく、分析系の議論、特に「死後の害の哲学」における身近な死者から始まる死者倫理についてミニマルな基礎的考察を展開していただきました。以下は、わたしなりのまとめです。

 教団宗教の弱体化・宗教的言説の空洞化が進む昨今、宗教概念そのものも歴史的構築物として扱う傾向にある宗教哲学にとっては、このまま宗教から遠ざかり空洞化の進行に加担するのをよしとはせず、むしろ従来宗教が担ってきた非日常的・非合理的経験の解釈を通じて宗教的なものを積極的に再構築していくことが喫緊の課題となる。そのうえで、宗教的言説の根源にあるべき「死者への敬意」という主題から出発するのはごく自然ななりゆきであるように思います。

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 今回佐藤さんは、死者倫理の問題系のなかでも、死者そのものに生者と同じような敬意を払う可能性と条件を問うことに話題を限定されました。さらに死は死者にとって害なのか、害であるならそれはなぜなのかを問う「死の害の哲学」、とりわけ死者が蒙る消極的な害についての考察に焦点を絞ります。そしてこの潮流の展開は、

1)死によるポテンシャルのはく奪を考える方向 

2)死者は生前/死後関係なく生の全体の主体として、あるいは(実存はしていないが)生者と同じように存在のレベルで害を受ける対象=オブジェクトとなっていると考える方向 

3)死の害の時間性を考える方向

 

の3つに整理できます。

 そのうえで以上の3)の問題系は

A)死の瞬間、生前に害が及ぶとする事後遡及的な時間性

B)死そのものが決定的な断絶とはならない、生と死が地続きにあるような時間性

 

のふたつに分類できる。このうちB)を扱うのが事前に指定された参考資料、福間聡「「死者に鞭打つ」ことは可能か」が死者倫理の問題系全体における立ち位置である、と解説いただきました。このようにしてみると、福間論文を「図」とした「地」の広がりがよくイメージできますね。

ci.nii.ac.jp

 福間論文において焦点となるのが、死者の象徴的実在、すなわち言葉として語られたりイメージとして伝播したりするような死者のありかたです。この点、死者は生者と同じように言葉やイメージのなかで生き続けている。このように死者が悪罵や歪曲の被害を生者と同じように被るという場面を想定すれば、死者は生き生きと語られ続ける限りにおいて敬意を払うべき隣人となる。

 しかし佐藤さんは、ここに死者についての語りの正しさをつけ加えることを忘れません。語られる死者が敬意を払う対象となりうるだけでは死者倫理としては不十分である。つまり死者についての語りにはある種のメタ倫理的制約が必要である。死者が生者にとって都合のよい敬意のもとに語られてはならない。語られる死者が死者本人のものと推定される人格から切り離されてはならないとする、「過去への忠実さの要請」(ポール・リクール)が問われなければならない。とすれば、分析系哲学が提示するように生き生きとしたものとして死者を語るとき、死者のすべては絶対に語りえないし死者の思いは代弁できないという大陸系哲学におけるメタ倫理的次元に向き合わなければならないのではないか、という問いかけをもって佐藤さんの発表は締めくくられました。生き生きした死者の近さと完全に語りつくすことのできない死者の遠さを同時に想起すること、とでも言い換えられるでしょうか。

 対話の時間においては、佐藤さんのミニマルな問いを敷衍する方向に進みました。「忘れられる権利」との関係、象徴的実在とゾンビの関係、脳死と語り、死者の美化/美学化の問題、死者の名を騙ること、死者を記録するメディア、非西洋世界の口承文化における死者の語り、死体損壊罪・死体遺棄罪の位置づけ、語られることのない死者というサバルタンの問題系、ヘイドン・ホワイトとカルロ・ギンズブルグによる歴史の物語論論争との関係、及び歴史修正主義の問題、死後の世界のイメージなどなど、一時間ほど活発な議論が続きました。

 身近な問題から出発し、学術的に高度なところまで議論を展開することに成功したと思います。また佐藤さんのプレゼンの仕方、ハンドアウトの構成、言葉の使い方にも大いに蒙を啓かれたことをここに付言しておきます。とても生き生きとした議論であり、ハンドアウトを見なくとも内容が理解できる明晰さがありました。わたし自身、学会発表等でこのスタイルを真似してみたいと思いました。

 福間論文の予習に始まり、そしてこの討議を経て、さらに佐藤さん自身の感想の末尾にリンクが貼られている新聞連載記事「死者をどう記憶するか」を読むことを通じ、さらに死者倫理について理解を深めることになれば幸いです。わたしとしては、佐藤さんのインタヴュー記事オバマ氏演説:宗教哲学からどう読むか?「死者の声」を代弁してはならない」(1~3 『クリスチャン・トゥデイ』2016年6月29日)も併せてお読みいただくことをお勧めします。

www.christiantoday.co.jp 

 

 

以下、佐藤さんに寄稿いただいた感想です。

【発表をおえて】

 まず、当日、発表を聴いていただき、またご質問などをいただいた皆様に、感謝申し上げます。
 概要にもあるとおり、当日は、「なぜ死者を敬わなければいけないのか」という主題をめぐって、あえて現代思想のスタンダードである他者論的な倫理から出発せず、「死の害の哲学」を一つの突破口として、「死後も害を被りうる」ような死者の存在のあり方を考えることで、死者の名誉を毀損してはいけない理由を考察しました。生きている人にも死んでいる人にも、等しく「言説やイメージにおいて存在する社会的・象徴的人格」という次元があり、その人格(平たくいえば、その人の社会的評価・社会的名誉)は、仮に死者であってもなお言説のなかで生きつづけている限り、「生き生きとして」おり、「傷つくことができる」。それが、死者を敬う一つの根拠たりうるのではないか、という発表をおこないました。
 異なる分野に関心をもつ人々が多く集まり、かつ、北九州という、私自身もなじみのない土地で発表することもあり、正直なところ発表前はどのような反応をいただけるのか予想もつきませんでした。しかし、蓋を開けてみれば、所定の発表時間のあいだ、質問が途切れることがなく、特に、意図的に主題を絞りに絞った発表だっただけに、そこから零れ落ちた視角からの鋭いコメントを多数いただき、感謝のかぎりです。とりわけ、文学系の方が比較的多かったためか、ある種のフィクショナルな想像力とその限界という論点にかかわるコメントが多く寄せられたのが印象的でした。これだけ議論が盛り上がっただけに、もう少しそちらの方面の議論にも展開させればよかったかと、いささか反省しております。
 なお、そのあえて展開しなかった、発表者の他者論的な死者論については、以前新聞に寄稿したことがあり、発表の補足として、ご参照いただければ幸いです(以下のwebページの、後半画像3枚で全文を読むことができます)。

                                     佐藤啓

「死者をどう記憶するか(上)(中)(下)」(中日新聞2016年6月28日付、7月5日付、7月12日付、各朝刊より) 

 http://nie.jp/month/contest_newspaper/2016/detail/1-3.html

 

 佐藤さんの発表に引き続き、岡崎佑香さんに 御登壇願いました。岡崎さんはヘーゲル哲学をフェミニズムから読み解く研究をされていて、スラヴォイ・ジジェク+マルクス・ガブリエルの共著『神話・狂気・哄笑』の共訳者でもあります。

togetter.com

 岡崎さんには「ヘーゲルアンティゴネー論とフェミニズム」と題してご発表いただきました。告知段階の梗概では『アンティゴネー』における姉妹関係が焦点となっておりましたが、当日は兄妹関係を扱うご発表でした。おそらく『精神現象学』のような弁証法的紆余曲折が梗概と発表とのあいだにあったのだろう、と推察します。以下、わたしなりのまとめです。

 ジュディス・バトラーアンティゴネーの主張』は、ヘーゲルが『精神現象学』において展開するアンティゴネー読解のラディカルさを理解しているように思われるのに、なぜかそれを単純化してしまっている。具体的に言うと、バトラーはヘーゲルの読解を、兄クレオーンの拠って立つ「人間の掟」と妹アンティゴネーの拠って立つ「神々の掟」という図式に収斂させてしまう。バトラーの読みは、オイディプスの呪いが父と兄の差異をかき乱し欲望を乱反射させる「乱交的服従」をその言語の働きに認める方向に進む、つまりエディプス・コンプレックス的な欲望の構図の脱構築へと向かう。しかしそこまでの過程でヘーゲルが提示している問題、とりわけ「兄妹関係」と「犯罪」概念のラディカルさをバトラーは無視してしまう。バトラーが自らのアンティゴネー読解を展開するうえで、以上の要素を軽視している点に岡崎さんは着目しました。これらをヘーゲル思想の未だ語られざるフェミニズム読解のポテンシャルとして掬い上げる。そうすると同時に、「乱交的服従」に至るバトラーの洞察の犠牲となっているフェミニスト的盲目を新たなポテンシャルとして浮き彫りにする。いわば、ヘーゲルとバトラーの読みを弁証法的にぶつけ、ヘーゲル精神現象学』におけるフェミニズム的読解の萌芽が見える地点、すなわち両者の止揚を目指す、というのが岡崎さんの発表の趣旨であった、とわたしは理解しています。     

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さて大枠を見たうえで、細部に入ります。岡崎さんの発表において焦点となったのは、女性の男性に対する関係においてヘーゲルが特権視する「兄妹関係」と、ヘーゲル法哲学』を援用したアンティゴネーの「犯罪」行為解釈でした。

 補助線を引いておきます。ヘーゲルは、『精神現象学』精神章において女性が男性と結ぶ関係(神々の掟に定められた男女関係)をみっつに分類しています。

1)夫と妻の関係

2)母と息子の関係

3)兄妹関係

 

 このうち1)と2)の男女間関係は欲望や情欲といった「自然」に囚われている。自然の克服がひとつの主要なテーマとなっているヘーゲル哲学において、自然に囚われている限り自由な主体とは言えない。家族内関係においては女性は自由ではない、とヘーゲルは考える(もともと西洋では女性は男性よりも自然の力に曝されやすいと見られてきました)。しかし例外となるのが3)の兄妹関係です。ヘーゲルアンティゴネーが死した兄ポリュネイケスと結ぶ関係は「同じ血縁であるが、この血縁は両者において安定し、均衡を得ている。それゆえ両者は情欲を持ちあう(begehren)こともないし、一方が他方に自立存在(Fürsichsein)を与えたのでもなく、一方が他方からそれを受け取ったのでもなく、互いに自由な個人性(Individualität)である」と論じています。兄と妹の間の「承認は純粋であり、自然的関係を混じえていない」のです。

 神々の掟に定められた兄妹関係は、自然を克服している。それゆえに家族内関係とは異なり、兄と相対する場合、女性は欲望の一般化を免れている。つまり、兄に対する場合、アンティゴネーは兄を男性一般に還元する自然な「情欲」ではなく、自由な個人性に根差した一般化できない欲望を持ちうる、ということになります。したがって、アンティゴネーはポリュネイケスを男性一般として性的に欲することなく、ただひとりの「この」兄として、自然による一般化を免れた(性的欲望ではない)欲望や意志、あるいは愛といってもよいでしょうか、そのような人倫的愛を向けている。裏を返せば、アンティゴネーは兄妹関係においては例外的に、女一般には収まらない、自然から逃れた自由な主体、「この」アンティゴネーとなりうる。自由な主体である「この」アンティゴネーと、「人間の掟」という一般性を代表するもうひとりの兄クレオーンとの対決を論じるうえで鍵となるのが犯罪です。

 ヘーゲルは『法哲学』において不法行為をみっつに分類しています。

1)無邪気な不正

相対する相手と拠って立つ法が一致していないために、一方の法が他方にとっては不法となる場合。

2)詐欺

一方が他方に対して不法であることを知りつつ法に則っていることを僭称し、信じこませる場合。

3)犯罪

1)と2)が同時に成立する場合。「無邪気な不法」あるいは「詐欺」においては「法」そのものの意義が保証されており、そうした「不法」はあくまで「法」の一部を否定するものであるのに対して、「犯罪」において「法」そのものの意義が否定されている」。

 

 岡崎さんの論によれば、アンティゴネーはまず神々の掟に準拠して、クレオーンが打ち立てた人間の掟に逆らいます。具体的に言うと、死んだ身内を埋葬するのは神々が定めたものであるから、クレオーンの言うように自らに背いたものの埋葬を禁止する人間の掟は無効である、という理屈です。この場合、端的に互いの拠って立つ法が全く違うので1)無邪気な不正が成立することになります。

 しかし同時に、アンティゴネーは「詐欺」をも犯しています。

夫ならば、たとえ死んでも別の夫が得られよう。子にしても、よし失ったとて、別の男から授かれよう。しかし、母も父も冥界にお隠れになった今となっては、また生まれ来る兄弟などありえぬのです。このような理から、ああ、大切な兄上、誰にもましてあなたに礼をつくしたのに、クレオーンには、それが罪であり、不埒な恐ろしい所業と思われたのだ。

このアンティゴネーの言明は、ポリュネイケスの埋葬行為が神々の掟に基づくものではなく、上で述べた「この兄」への愛に基づくものであることを物語っている、と岡崎さんは論じます。神々の掟に従っていることを僭称しつつ、アンティゴネーは法外な、ポリュネイケスという個人だけに妥当するような例外的な立法行為を行っている。従って、これは1)無邪気な不正であると同時に2)詐欺でもあるような3)犯罪行為である、ということになります。先ほど見たように、兄妹関係においてアンティゴネーは自然の影響を脱し、型にはまらない自由な愛を「この」ポリュネイケスに差し向けることができる。アンティゴネーの犯罪行為とは、神々の掟と人間の掟という法の枠組みから外れる特例措置を講ずる余地を、「この」兄への欲望を基礎として生み出すものだった。

 バトラーはヘーゲルアンティゴネーのポリュネイケスに対する欲望を仄めかしながらも最終的には否定している、という批判をしているけれども、岡崎さんは、ヘーゲルのいう犯罪行為をアンティゴネーがなす背後には、「この代替不可能な」兄への愛がはっきりと存在している、と結論づける。こうして女性の欲望をめぐるバトラーとヘーゲルのあいだの懸隔を埋めると同時に、男性中心的なヘーゲル思想のなかにフェミニスト思想のポテンシャルを見出す、というわけです。

 わたしとしては、自然的な「情欲」のない兄妹関係を結ぶ際に、アンティゴネーが、情欲のように男女なら誰にでも妥当するありふれた性的欲望ではなく、ポリュネイケスにしか妥当しない特別な欲望、あるいは自由な愛を感じている点、この両者の差異にもっと紙幅を割くべきだろうと考えます。この自然を外れた例外的な愛が、論のなかでは自然的な情欲(性欲)と見分けがつかないものになっているのではないか、と感じました。

 事前にメーリングリストにおいて指摘されていた点も含めて、対話の時間における議論の内容を紹介しておきます。

 まず文献学的な問題です。

 ヘーゲルの『法哲学』は1821年刊行であり、『精神現象学』1807年と14年ほどの時差がある。犯罪概念の解釈に『法哲学』を援用するのは文献学的に有効な議論ではないのではないか、という指摘です。『精神現象学』以前のヘーゲルの法学的議論、あるいは同時代の法哲学的議論を参照するのが文献学的には正当なのではないか。また併せて、ヘーゲルアンティゴネー論の直後に来る「法状態」のパートを一緒に検討する必要はないか。おそらくアンティゴネーが奉じる「刹那的な法」という岡崎さんのやや曖昧な表現も「法状態」を論に組み込むことでもっと精緻に論じられるのではないか。しかし『法哲学』を参照した『精神現象学』のアンティゴネー論解釈はおそらく例がなく、ヘーゲル哲学のポテンシャルを掬い上げるという問題設定であれば許容されるのではないか、という意見もありました。

 次に論の構成です。

 バトラー以外にもフェミニズム批評家の見解が引用されているが、それぞれの立場がわかりにくい。岡崎さんの立場もここに埋もれてしまう。バトラーも含めたフェミニズム批評の論点を整理したうえで、その死角をヘーゲルアンティゴネー論のなかに見つける、という立論にしたほうがクリアになるのではないか。わたし自身は、長年来バトラーにかかわってこられた岡崎さんのこだわりと、ヘーゲルのテクストに対する岡崎さんのフェミニスト読解とが、弁証法的に止揚される手前にあるのかな、という印象を受けました。ここからヘーゲルフェミニスト思想的ポテンシャルを見出す読み手としての立場を固めていく上で、この論はひとつの試練だったのかもしれませんね。それだけチャレンジングな論だった、ということでしょう。

 その他にも、やはり梗概の中心的論点だった姉妹関係とこれはどう結びつくのか、バトラーの「乱交的服従」との関係、カントの人倫との関係など、議論は尽きませんでした。とりわけ、神々の掟にアンティゴネーが背いているかどうか、というのはひとつの勘所でした。わたしの意見では、兄妹関係が神々の掟によって自然的なもの(情欲・性欲)を免れる例外的な関係として規定されている以上、アンティゴネーがポリュネイケスの埋葬を訴える際に拠って立つ法は法外なものではなく、やはり神々の掟なのではないか、と思ってしまいます。であるならば、詐欺の議論は再検討しなければならないかもしれません。議論の詳細はさて措き、自然に規定されない自由な意志・欲望がアンティゴネーにはある、とヘーゲルが認めている点に光を当てる岡崎さんの発表は、ヘーゲルアンティゴネー論にはバトラーの言語論的な位相とは毛並みを異にするフェミニスト批評のポテンシャルが眠っていることを的確に指摘するものであったのは間違いありません。その他、わたしの記憶が及ばない部分もあるかと存じますが、所定の時間を超えて、有意義な議論が一時間ほど続きました。

 岡崎さんの発表は、参加者全員に完全原稿を配布したうえでこれを読みあげるという形式をとりました。まず逆巻が、ヘーゲル精神現象学』とバトラー『アンティゴネーの主張』、そしてソフォクレスのオイディプス三部作との関係を簡単に紹介しました(フロアのサポートに感謝します)。次に、岡崎さんが原稿を読みつつ、フロアから疑問があれば、その都度質問する、という形式で発表を進めました(佐藤さんの提案でした)。わたしのような門外漢には難解な内容ではありましたが、このようなプロセスを経て、ミニマルな相互理解はできたのではないか、と思います。高度に専門的な内容をいかにして専門外の人々(学者であるかどうかは問いません)に開くか、というのは本会発足当時からの課題です。今回は専門を他者に開くという意味でも、ファシリテーターとしましては大きな前進が見られたのではないかと考えます。それでもなお、もう少し素朴な疑問を地道に重ねて、ヘーゲルの専門的な議論をより広い地平へ開いていく努力が必要だと感じました。今後の糧としたいと思います。それでは、岡崎さんの感想をもって、本報告を締めくくります。

【発表を終えて】

過日は拙稿について議論する機会を設けていただき、誠にありがとうございました。会場の設置、広報、懇親会の準備など、大変お世話になりました。
 当初はヘーゲルが『精神現象学』精神章で展開したアンティゴネー読解における姉妹関係(の不在)に注目したフェミニズム読解を行う予定でしたが、当日はヘーゲルが兄妹関係をどのように論じているかという問題を、ジュディス・バトラーによるヘーゲル批判を参照しながら再考することになりました。
 もともと同テーマで執筆中の論文がヘーゲル研究の枠に留まらない読者を想定した論集に査読無で掲載予定のため、必ずしもヘーゲル哲学を専門としないクリティカルな読者のご意見を必要としていました。わたしの現在の研究拠点が国外ということもあって、所属大学のゼミでも発表する機会を得ることもできず、なんとかしなければと思っていたところ、逆巻さんに声をかけていただきました。
 専門外にもかかわらず、事前に拙稿を読んでくださり、研究会前までに的確なコメントをくださった逆巻さん、立花さんに心から感謝いたします。当日も多くの方が、生産的な批判を寄せてくださり、優れた読者に恵まれたことをとてもありがたく思っております。また、佐藤さんの内容・形式ともに洗練されたプロのご発表を拝聴できたことも大きな糧となりました。このレベルを目指さなければと強く思いました。
 皆さまに頂いたご批判やご意見をもとに拙稿の根本的な加筆修正を行ってまいります。掲載予定の論集は来春に刊行される予定ですので、追って告知させていただければと思います。今後ともどうぞよろしくお願いします。

                                     岡崎佑香